明治29年、冬――。
 小春日和のような日が続いていたが、今日は厚い灰色の雲が垂れ込み遂に雪が降り出して来た。雪は止みそうもなく、明日はきっと大雪になるだろう……。
 この季節はどうも苦手だ。今でも左頬の十字傷が疼く。京都に住んでいた頃の、決して消えることのない辛い出来事を思い起こすから。
 だが……。だが、今は……。

〜雪降り止まずとも……〜

満月様


 大晦日も近づいてきた東京下町。外が暗くなるのも随分と早まった。新年を迎えるべく、東京下町は今日も買い出しで沢山の人が行き来していた。
 そんな街中を、雪が本降りになって来たため俺達兄妹三人は買い出しの帰り道を急いでいた。
「この季節は、本当に寒さが身に染みるよな……。二人共、そう思わないか?」
「本当よね……。剣路兄さん。心路も、そう思うでしょう?」
「うん……。剣路兄さん、菫姉さん。僕も、そう思う……」
 そんな会話をしつつも、俺達は最近の父さんの様子が気にかかっていた。
 冬が来ると、雪が降る空を見上げている。その瞳は、心ここに在らず……と言った方が良いのかもしれない。
「父さん、夕餉出来たぞ」
「ああ……。すまないな。剣路……」
「いや、良いよ。いつもすまないな。父さん……」
 そう返ことをするのがやっとだ。何と声をかけたら良いものか……。
「あの頃の出来事を思い出しているんじゃないか……? 父さんにとって十字傷にまつわる、心に消えることのない出来事だからな……」
「そうよね……」
「うん……」
「俺達まで暗くなったって仕方ない。母さんもそんな父さんを見るのは辛いんだ。さあ、早く帰ろう! 父さんに、暖かいものを沢山食べさせるぞ!」
「おー!」
 三人で声を上げると、駆け足で家に向かった。


 寝室……。俺は何をするでもなく、縁側から雪を眺めていた。俺の傍には今一番愛しい女性がいる。
「剣心……。あの頃のことを思い出しているんでしょう?」
「薫……。俺にとって、今はとてもかけがえなく幸せなんだ。だが、この季節が来る度思い出してしまう……。左頬の十字傷にまつわる悲しく辛い出来事を……。今が夢ではないことは百も承知だが、時々夢ではないかと思ってしまうんだ。すまないな……」
 昨日……。
 家族全員を居間に呼び出した俺は、十字傷にまつわる話をした。長男の剣路は次男の心路の今の歳の頃に話をしているので、話は知っているものの、菫と心路は初めて聞く話となる。薫には、十数年前に縁との私闘の十日前……。
 話をする前、縁側にて男二人で雪見酒をしながら、剣路に話をする旨を伝えた。
「今日の酒も美味かったな……。父さんお休み! また明日な」
「ああ、お休み。剣路……」
「父さん……?」
 訝しげに俺の表情を見た剣路に、俺は決意を伝えた。
「剣路……。父さんな……。あの話を菫と心路にもしようと思っているんだ……」
「……そうか……。良い頃合いかもしれないな……。弥彦さんも、今の心路の歳の頃に父さんの話を聞いたんだろう?」
「……ああ……」
 そして……昨日と今に至る。
 幕末、京都で暗躍したこと……。
 新時代の為とはいえ、一人の侍を斬ったこと……。
 そして、巴を斬ってしまったこと……。
 その後、遊撃剣士となり、新時代の幕開けと共に全国を流離ったこと……。
 俺は全てを話した。だが、誰一人として俺を責める者は居なかった。
「剣心……。私は巴さんに感謝しているわ。だって……巴さんは、剣心を命を賭けて守ってくれたのよ。だから、今の私たちが居る……。そう思わない?」
「…………」
 君に出逢うまで、そう考えたことは無かった。誰に恨まれても可笑しくはない……。そうとしか思えなかった。
 だが……。
 君と出逢えたことで、自分自身の命も大切にしたいと思えるようになったんだ。これからは出来る範囲にしかならないけれど、一番大切な君達家族と仲間。この瞳に映る人々を守ってゆくよ……。
 薫、ありがとう……。
 薫に包み込むように抱きしめられた時、俺の目からは一筋の涙が伝った。


「ただいま! あー、寒かったなー!」
「本当にそうよね!」
「うん!」
 子供達が、買い出しから帰って来た。
「遅くなってごめんな。父さん……。今から暖かいものを作るから……」
「俺の方こそ、近頃はごめんな。剣路……。炊ことが出来なくて……」
「いや、良いよ。身体の調子が出ない時は休むのが一番だって、玄斎先生も言っていただろう? 今日も俺達が作るよ」
「いや……ようやく身体の調子が出て来たんだ。今日は鍋にするんだろう? 久しぶりに、父さんが作るよ。母さんと一緒に……」
「父さんが? やった! これでようやく、個性的な味の母さんの三食から解放される……」
「何か言った? 剣路……(にっこり)」
「いえ……何でもありません……」
 その当たり前の光景が、とてもかけがえのないものに思えてくる。
 くすっと笑みが漏れた。
 そんな俺に、薫と剣路、菫、心路が笑顔を見せてくれる。
「じゃあ、少し腹が空くかもしれないが……待っていてくれよ」
「ああ!」
 俺は、久しぶりに薫と共に台所に立った。


 久しぶりに作った鍋は、好評だった。
「うわー!父さんの鍋は、やっぱり美味しい!」
「おかわり!」
「あんたたちねえ……」
 夕餉の後は……。
「ごちそうさまでしたー!」
「お粗末様でした」
 些細なやりとりが、こんなに嬉しいことはない。
 夕餉の後……。菫と心路が部屋に戻った後、俺は薫と剣路と三人で縁側にて酒を飲んでいた。改めて雪を見る。
 だが……。あの頃……。幕末に瞳に映していた辛く悲しい雪ではなく、今の雪は辛くはない。とても暖かいものに思えてくる。
「父さん……。今年も、話をしてくれてありがとう」
「そうよ剣心! 一人で悩んでもダメよ! 私たち家族が居るんだから!」
「はは……。そうだったな……」
 そんな些細な会話が続いた後、薫が話題を切り出した。
「ねえ、剣心……。雪解けの季節が訪れたら……今回の巴さんの墓参りから、菫と心路も連れて家族全員で京都に行かない? 巴さんはきっと喜んでくれると思うわ。勿論、操ちゃん達も歓迎してくれるだろうし……」 「そうだよ! あの操さん達の歓迎ぶりはいつも豪勢だからな……」
「そうだな……」
 そうだ……。来年になったら、家族全員で京都へ行こう。巴へ、話をする為に……。


 雪が解け、ようやく暖かくなって来た頃、俺達は家族全員で京都を訪れた。
 操殿達の歓迎ぶりは相変わらずで笑ってしまった。約一名、毎年見慣れた光景で蒼紫は渋々といった所ではあったが、苦笑を浮かべている所を見ると嫌でたまらないというわけではなさそうだ。
 葵屋に泊まった次の日、俺達は巴の墓のある寺を訪れていた。墓前で手を合わせて帰ろうとした時、その寺の住職が顔を出して来た。
「おお、今年もいらしたのですね」
「こんにちは。毎年訪れ、申し訳ありません」
「いえいえ……きっとこのお墓の方もお喜びになっておられることでしょう。毎年訪れる方達はそう居りませんから……」
「では……」
 と言うと、住職は寺へ戻って行った。
 帰り道……。俺達家族は、巴に関する話をしていた。
「お前たちは、何て話をしたんだ?」
「ん……。ありがとう、かな。父さんを守ってくれて、ありがとう」
「……!」
「巴さんが父さんを守ってくれなかったら、俺達の存在もなかったんだ。巴さんは、もう一人の母さんみたいな人だよ。なあ、菫、心路?」
「うん、そうよね……」
「うん! 僕もそう思う」
「ね。言った通りでしょう? この子たちなら、分かってくれるって……」
 薫の言葉に涙が出た……。君に出逢って、そしてお前たちに出逢えて本当に良かった。ありがとう……。
 巴……。あの出来事は悲しいものでしかなかったけれど、今なら言えるよ。本当に、ありがとう……。
「もう……本当に最近の剣心は涙もろいんだから……。ほら、いつもの笑顔の剣心に戻ってちょうだい! また一人家族が増えるのに、お父さんがこんなんで大丈夫かしら?」
「え……?」
 薫の言葉に耳を疑ったのは、俺だけではない……。
 剣路に菫、心路も同様だった。
「あのね……。この頃体調不良が続いていて……小国診療所に数日前に行っていたのよ。恵さんが会津から来ていてね……。ついでに診てもらったのだけれど、来年の年明けの月あたりに家族が増えるわね。おめでとうって……。剣心が落ち込んでいる時が続いていたものだから、言い出せずにいたのよ……。剣心の調子が戻って本当に良かったわ」
 まだ膨らんでいない腹部に手を置き、薫が微笑んだ。
「俺達にきょうだいが増えるのか? やったー!」
「男の子かしら? 女の子かしら?」
「楽しみだね! 僕もお兄ちゃんか……」
 幸せは、これからも増えて行く……。俺は愛しさを込めて、薫を抱きしめた。
「ありがとう……薫。ありがとう……」
 君は誰を愛して行くのかな? これからも、幸せなことだけではなく、辛く悲しいこともあるかもしれない。でも、大丈夫。父さんがいる。母さんがいる。兄さん達や姉さんもいる。
 君のことを沢山愛して守るから……。
 だから、安心して生まれておいで……。