明治29年――秋の東京下町。
 ようやく暑さも一段落したとはいえ、残暑がまだ残る。
 夜は夏に比べると思いの他長くなり、鈴虫の鳴き声も亥の刻より聴こえるようになってきた。
 これは、そんな季節の中での日常……。

〜初恋の君〜

満月様


「ねえ兄さん、父さんと母さんって、どんな出逢いをしたのかしらね」
 久しぶりに台所に父さんと共に立つ母さんから、
「剣路、この子と買い出しお願いね!お味噌と、お醤油と……」
 と沢山の品々を言い渡されてから数々の調味料を街中で買って帰る道すがら、三歳下の妹が突如聞いてきた。
「さあなあ……。そういえば……」
 父さんに、俺も同じ事を聞いた時の事を思い出していた。
 それは数日前の事……。
「父さんが東京の街中をるろうにとして旅を続けていた時かな……。夜の街中でいきなり木刀を突き付けられたな。ははっ、あの時の母さんの迫力といったら凄いものがあったぞ」
「剣心……それって誉めているの? それとも……けなしているのかしら?」
 笑顔で父さんに迫る母さんに、
「いやいや薫、誉めているんだぞ」
 と困りながらも笑顔で答える父さん。
「本当よね?」
 という年柄年中の新婚夫婦(もういい歳のはずだが……)の会話を呆れながらも耳にしながら
「ご馳走様。じゃあ、お休み……」  と自室に戻ったのを思い出した。
「じゃあ、お前も聞いてみれば良いんじゃないか? 父さんなら、きっと話してくれるぞ」
「うん! じゃあ、そうするわね!」
 格好の餌食となってしまった父さんに、ご愁傷様と心の中で手を合わせた。


 その日の夜、母さんと妹が自室に戻り眠りについた頃……。
 俺は、父さんと酒を飲みながら男同士の会話を楽しんでいた。男同士の恋話と言った方が良いのかもしれない。
 会話の始まりは、もちろん千鶴の事からだった。
「剣路、そう言えば千鶴ちゃんとはどうなっているんだ?」
「な……! まだ手を繋ぐだけだよ父さん! そう言う父さんも、母さんと一緒になったのは東京に流離い着いてから半年後位だろうが!」
「ははっ、そうだったな……」
 と穏やかな会話の中で、
「そういえば……、母さんとの事で思い出した事があったんだよ」
「えっ? どんな事なんだ?」
 これは面白い事を聞いたな……と左之おじさんのような事を聞いてきた俺に(実際左之おじさんが見たら俺は一発殴られるに違いない)、苦笑した父さんは意外な事を口にした。
「実はな……。父さんと母さんは歳の離れた幼馴染なんだよ」
「えー! 幼馴染?」
 俺の大声が、夜遅くの縁側に響き渡った。
「しー。母さん達が起きるだろ」
 俺の口を慌てて塞ぎ自分の口元で人差し指を立てて苦笑した面持ちの父さんに、
「あ……ごめん」
 と謝る俺。面白い事を聞いたな……。
「あれは、明治時代の初めになるんだけどな……」
 父さんの口から、母さんとのなれそめが語られ出した。


 明治元年――。
 俺は東京の街に偶然流れ着いたんだよ。どこか懐かしい気がしたんだが……。そんな街中で、神谷道場を見つけたんだ。
 今も門下生が沢山いるだろう? あの頃も、沢山の門下生達が居たな……。門下生達が道場の中で稽古をするのを、小さい竹刀を握りしめながら羨ましそうに中庭から見ていた女の子が居たな……。その女の子が、母さんなんだ。何だか放っておけなくて、俺は声を掛けたんだ。
 その頃は、父さんも侍言葉がまだ抜けていなかったんだ。可笑しいだろう?
「どうしたのでござるか?」
「うん、門下生のお兄ちゃん達、稽古しているの……。私も稽古したいのに……つまんない」
「そうでござるか……。ではお父上にお話するのはどうでござるか?」
「ううん、父さん反対するの……。女の子が稽古をするものじゃないって……」
 そんな中、越次郎さんが現れたんだ。お前達にとってはお爺さんだな……。
「こら薫、お侍さんに迷惑をかけるな!」
「父さん! だって薫、どうしても稽古したかったんだもん……お侍のお兄ちゃんに、お話聞いてもらいたかったの……」
「薫殿でござるか。お父上に迷惑をかけてはいかぬでござるよ。では失敬……」
「待って! お侍のお兄ちゃんも協力して! 父さんにもう一押し必要なの!」
 今でも覚えているよ。あの時の母さんの気迫と言ったら今に迫るものがあったな……。
「薫……。どうしても稽古をしたいのか?」
「うん、薫……どうしても稽古したい! それで強くなって、この道場の師範になるの!!」
「やれやれ……お前のその気の強さは母さん譲りだな。大変だが……頑張るんだぞ」
「うん! 有難う父さん」
 その後の、中庭で見せた小さい頃の母さんの笑顔と言ったらとても可愛かったな……。
「お侍のお兄ちゃん、有難う!薫頑張るね!」
「ああ、身体に気をつけて、頑張るでござるよ。では……」
「ねえお兄ちゃん……。お家無いの?じゃあ、家に沢山居てよ!ねえいいでしょ父さん」
「薫がそう言っている事だし……。君さえよければどうだい?」
「かたじけない。では……」
 それから、父さんと母さんは時間が空いた時は兄妹のように色々な遊びをしたな。影踏みやお手玉……他にも色々な遊びをしたぞ。
 でも……。些細な幸せが続いたからこそ、より沢山の人助けをしなければ……と思う様になったんだ。今思えば……父さんの我儘だな。
 神谷家にお世話になって大分経った頃の夜かな……。父さんは、越次郎さんに話を切り出したんだ。
「そうか……。こんなに薫が喜んでいるのに残念だな……。君さえよければ、いつまでもいていいんだぞ」
「かたじけない、越次郎殿。けれど……業深い拙者にはこの微々たる幸せも、もったいなき幸せ……。拙者はまた……流れるでござる」
 そんな時、母さんが居間に飛び込んで来たんだ。便所に起きた時に、多分廊下で聞いたんだろうな……。
「お侍のお兄ちゃん、行っちゃうの? 嫌だ、行かないで!」
「薫……。我儘を言うんじゃない。お兄ちゃんが困るだろう?」
「じゃあ……、お兄ちゃんのお名前を教えて!」
 名前を聞かれたのは初めてだったな……。
「剣心……。緋村剣心でござる」
「剣心お兄ちゃんなのね? ねえ剣心お兄ちゃん! 薫が大きくなって綺麗になったら……お兄ちゃんのお嫁さんにしてくれる?」
 小さいながらも……母さんの瞳は恋する女の瞳だった。そんなところに、父さんも魅かれたのかもしれないな……。
「ああ……。期待しているでござるよ」
「じゃあ、約束ね! 剣心お兄ちゃん、小指出して!」
「おろ? 小指……でござるか?」
「うん、ゆびきりしよう!」
「ああ……約束でござるよ」
「うん……約束ね!」
「あ……薫殿」
「なあに?」
「薫殿が、綺麗になるおまじないでござる……」
 今思えば……。あの頃から父さんは母さんを女として意識していたのかもしれないな……。おまじないとして、母さんの額に口づけを一つ落としたんだ。
 それから、再び全国を十年かけて流離ったんだが……。母さんの事を忘れた事はなかったな……。


 父さんの恋話は終わり、夜の縁側で俺は飲んでいた酒をこぼしそうになった。おいおい、これって惚気か……?
 自分でも思わず顔に血が集中していくのが、嫌でも分かる。俺の顔は、間違いなく赤くなっているだろう……。
「ん? どうした剣路。顔が赤いぞ……熱でもあるんじゃないのか?」
 父さんが、悪戯が成功したかのような笑みを見せて聞いてくる。
 しまった……。すっかり父さんの術中にはまっていた。でも良い事聞いたぞ……。左之おじさんの気持ちが分かるというものだ。こうして、笑いながら父さんの母さんに対する恋話を聞いていたんだろうな……。
 廊下を通りかかった妹が、俺達の話声がしたのかすぐに興味を持ち話に加わった。質問の対象者は勿論父さん。
「あー! 父さんも、兄さんもお酒飲んでる! ずるいわ! 私も飲みたい!」
 ふくれっ面をしている妹を、
「こらこら、お前はもう数年後にしなさい」
 と苦笑を浮かべつつやんわりと諌める父さん。
「あ、父さん! 聞きたい事があったのよ」
「ん? 何だ?」
 あ……あの話か。
「ねえねえ、父さんと母さんってどうやって出逢ったの?」
「さあ……何処だったかな?」
「あー! ごまかさないで!」
 ……やっぱりな。
 今宵は大変だな……父さん。でも、またこれからも母さんとの恋話は沢山聞けるに違いない。千鶴との付き合いの参考にしようか……。と思っている自分がいた。
 妹がまた寝付いたら、朝まで父さんと積もる話でもしようかな……。


 朝までまだ時間がある刻、子供二人がそれぞれの部屋で再び眠りに落ちた後、寝室にて夫婦二人でとりとめのない会話をした。
 話は勿論……薫が小さかった頃の話。
「もう! 剣心たら! 私が小さかった頃の話をするなんて……! 今思い出しても恥ずかしい過去なのに信じられないわ!」
「まあまあ、いいじゃないか。薫……。俺は、あの頃の薫は可愛いだけじゃなく、凛々しく綺麗に思えたんだぞ。勿論、今でもな……」
「ふふ、ありがとう。誉め言葉として受け取っておくわね……」
 夜遅くになると、愛する女性を求める自分がいた。惚れた弱みと言うものなのだろうか……。薫の顔に、徐々に赤みがさしてくるのが分かる。その顔は、小さい頃の薫や少女時代の薫と変わりなく思わず笑みが零れてしまう。  さあ、夫婦二人の時間を楽しもう……。
 その後、甘い時間が訪れたのは言うまでもない。