明治26年、夏――。
「剣路、待ちなさい! あんたという子は、昨日も稽古をさぼったのですって? 弥彦から聞いたのよ!」
 朝起きるなり、廊下にいる母さんからの小言が始まった。またかよ……。冗談じゃない。
俺は何も返事をせず、井戸の側で顔を洗い終えると足早に自分の部屋へと踵を返した。
その母さんの声に、何事かと父さんが寝室から顔を出してきた。
「あっ、コラ剣路、待ちなさい! まったくあの子は……。剣心、どうにかならないのかしら。小さい頃は父さん、母さんって言ってくれたのに……」
「薫、今はどうにもならないさ。ほうっておけ。俺もあの頃は血の気が多かったからな……」
「ああ……そういえば、そうだったわね」

愛おしい人達を守る為に 〜礎〜

満月様


 明治29年8月――。外は熱く蝉が鳴き、青空には眩しい太陽が輝き入道雲が浮かぶ。今日もかなり暑くなりそうだ。
 外で洗濯物を干している父さんに、俺は竹刀を持ち声をかけてみた。
「父さん、いつもの稽古をつけてくれないか?」
「ああ、いつでも受けて立つぞ。剣客の頃のような腕はないがな……」
 穏やかに笑いながら快諾してくれる父さんに稽古をつけてもらう事が、俺の午後の日課となっていた。午前中は道場での稽古だが……。師範でもある母さんに厳しく叱られながら稽古をつけてもらうものとはまた違った重みがある。
 きっとそのうち、出稽古も始まるだろう。
 ひとしきりの稽古が終わった後、縁側で汗の流れた身体を少し涼しくなってきた風にさらし休んでいると父さんが氷の入った冷たい麦茶を持って来てくれた。
「剣路、今日もよく頑張ったな……お疲れ様」
「ありがとう、父さん」
「あら、二人とも麦茶を飲んでいるの? いいわね。私も頂こうかしら?」
 後から、稽古を終えた母さんも会話に加わってきた。
 そんな当たり前の日常会話が、俺はとても嬉しかった。三年前の俺からは、考えられない事だったからな……。俺も血の気が多かったから……。


 あの頃の俺は、まさしく血の気が多いという言葉が当てはまっていた。稽古をさぼるのは日常茶飯事であり、悪友とつるんではどこかへ遊びに行ってしまう始末。父さんからは、「幕末の頃の俺よりは可愛いものだよ」と笑い飛ばされた何とも恥ずかしい過去だ。
 その上、稽古はしなくても両親から受け継いだ剣の腕はまわりが妬む程の上達ぶりだった。
「神谷活心流は継ぐものか! 俺が継ぎたいのは飛天御剣流だ!!」
「剣路! 母さんに何という事を言うんだ! 謝れ!!」
 俺の言葉に衝撃を受けた母さんは涙を流し、幕末、京都に名を轟かせた剣客であった父さんの怒りは凄まじいものだった。
 それからしばらくは、神谷家には何ともいえない一家離散とも取れる冷気が漂い用事で寄った。弥彦さんや燕さん、妙さんまでもが怯える程だったという……。
 数日経ったある日の朝、冷気が冷めやらぬ中、父さんが神妙な面持ちで話しかけてきた。
「剣路、どうしても飛天御剣流を継ぎたいのか?」
「ああ、俺は継ぎたい。俺は、父さんの様に名を轟かす剣客になりたいんだ!」
「そうか……じゃあ、今すぐ道場へ来い。飛天御剣流がどんなに重いものであるかを教えてやる」
 あの時の父さんの怒気のこもった表情を、俺は今でも忘れていない……。
 朝早くの道場にて、前日弥彦さんから逆刃刀を借りた父さんと俺が対峙していた。後日弥彦さんが言うには、長屋に逆刃刀を借りに来た父さんの表情は怖気づくものがあったらしい。
「弥彦、逆刃刀を貸せ! 剣路を以前の剣路に戻す!!」
「あ、ああ……。だがな剣心、くれぐれも身体を大切にしろよ……」
 そう言うのがやっとだったという……。
「いいか剣路、これが飛天御剣流の龍槌閃というものだ。身体と心に叩き込んでおけ……」
「ああ、弥彦さんから話には聞いていただけで実際見てはいないからな」
 俺は不敵な笑みを父さんに向け、木刀を構えると……
「はあーっ!」
 上に飛び木刀を父さんめがけて振り下ろした。しかし、そこには父さんの姿はいない。
 上には上が居たと、今になっては思う。やはり父さんには叶うはずもなかった。
「飛天御剣流……龍槌閃!!」
 俺の左肩に一閃が入った……。重い……。これが、父さんが背負ってきた心の痛みなのか……。
 そう思ったのと同時に肩を押さえうづくまっていた俺に父さんが左腕を差し出した。
「立てるか? 剣路……」
「ああ……俺は大丈夫だよ。今までごめんな。父さん……」
「ははっ、俺も大丈夫さ。母さんにも謝らないとな……」
 そう言った父さんの表情は、いつも目にしていた穏やかな笑顔に戻っていた。いつぶりだろうな……。そう思った瞬間、
「ぐわっ!!」
 うめき声と共に、身体を押さえ父さんが倒れてしまった。
「父さん!!」
 俺は父さんを担ぐと、俊足で小国診療所へ向かった。すごい熱だった。
 小国診療所には、偶然近況を報告しに来ていた恵さんが会津から泊まりにきており高熱を出した父さんを診てくれた。
「まったくもう、剣さんときたら! 久しぶりにお会い出来たと思ったらこれですか!!」
「かたじけない、恵殿」
 母さんに負けじと小言をいう恵さんに、眉を困ったように八の字に曲げ微笑するいつもの父さんがいた。
「数日入院ですからね、剣さん」


 父さんの入院は思いの他長くかかり、二週間後ようやく家に帰る事が出来た。
 父さんが家へ帰る当日までの間は、母さんと俺が交代で高熱を出し寝込んだ父さんの看病にあたった。
 その間母さんは、父さんがこのまま帰らぬ人となってしまうのではないかと気が気ではなかったらしい……。恵さんが言うには、父さんの目が覚めた時は泣いて父さんに抱きつき、しばらく離れなかったらしい。
 父さんは、
「薫、いつも心配かけてすまないな……」
 と心から謝り、母さんは
「当然よ!貴方の体は貴方一人のものではないのですからね!」
 と涙顔から一転しいつもの調子で父さんを叱ったそうだ。
 父さんが家に戻る日……。病室には母さんと俺がいた。父さんには
「何もしなくていいから」
 と母さんと二人で言いながら家に帰る準備をしているところに、恵さんが来た。
「剣さん、今回の事でお話があります……。薫さんと剣路君も一緒に診察室へいらしてくださいな」
 家族全員で顔を見合わせると、三人揃って診察室へ赴いた。
 診察室へ入ると、恵さんは神妙な面持ちで父さん、そして母さんと俺へ話しかけてきた。
「剣さん……、私が会津へ帰る前に宣告した事を覚えていらっしゃいますか?」
「ああ……。あの時言われたな。飛天御剣流はあと四、五年以内に確実に撃てなくなると……」
「あれから、お身体の調子は如何ですか?」
「ああ……。日常生活を送る分として何ら問題は無い。木刀を使い時に警察に呼ばれているがな……」
「その事なのですが……。剣さん、剣路君を以前の剣路君に戻す為に再び逆刃刀を使いましたでしょう? 加齢に伴い、身体の耐性も少しずつ衰えて来るものなのですわ。そこに飛天御剣流を再び使い技を繰り出した……。あの剣術は比古さんがやっと使いこなす事の出来る剣術でしたはず。今の剣さんの身体に途轍もない負担がかかってしまったのです……」
 ――ドクン――
 俺の心臓が音を立てた。……なんだって?
「日常生活を送る分にはもちろん問題はありません。ですが……。今の剣さんの身体では竹刀を持つのがやっと……。木刀を使い警察からの要請に答える事はもう出来ないと思ってくださいな……」
 恵さんの辛く目を伏せた表情に目の前が霞んでいった……。
 ――俺は、父さんに何て事をしてしまったんだ――
 家に帰ってから、夕暮れの廊下で俺の涙はとどまる事はなかった……。
 どのくらい泣いていたのだろうか……。外は暗くなり、空には満天の星と月が浮かんでいた。
「剣路、まだ起きていたのか?」
 穏やかな笑顔を浮かべながら、眠りについたはずの父さんが寝室から顔を出した。父さんの優しい笑顔を見た途端、俺の目頭は再び熱くなり沢山の涙が溢れ出て来た……。
「父さん、ごめんな……! こんな身体にしてしまって……俺……!」
「剣路、自分を責めるな……。父さんは嬉しいぞ……。ようやく以前のお前に戻ってくれたからな……」
 その言葉に俺は再び涙を流し、父さんに抱きつき泣き崩れた。父さんは笑顔を浮かべ、幾度も優しく俺を抱きしめ頭を撫でてくれた。
 その後俺は、久方ぶりに家族揃い川の字となり床を並べて就寝した。


 翌朝も、青い空に白い雲……。素晴らしい夏空だった。
 俺は両親よりも早くに目を覚ますと、心配をかけた人達に挨拶と詫びをしに行こうと出かける支度をしていた。
 まず、どこへ向かおう……。真っ先に浮かんだのは、悪友とつるんでいた頃に街中で見かけた涙を浮かべて俺を見ていた幼馴染の千鶴の姿だった。
 千鶴はどうしているだろうか? かつての昔母さんが父さんに想いを伝えたように、俺にも気持ちを伝えてくれたのに……。別の誰かに想いを寄せるようになっているだろうか? もしそうだとしても、仕方のない事だ……。俺の仕出かしてしまった事が招いてしまった結果なのだから……。
 そう思っていると……。
「剣路、千鶴ちゃんの所へ赴くのか?」
 不意に父さんに声をかけられ、驚いた俺は慌てて振り向いた。さすが幕末の頃の剣客なだけあるな。人の心を読むのも朝飯前か……。
「ああ、行って来るよ。千鶴にも心配かけたからな……」
 千鶴に対する感情を必死に隠し言ったつもりだったが、あっさりと父さんに見抜かれてしまった。
「ああ、想いを伝えるのは気付いたら早い方がいいぞ。取り返しのつかない事になる時もあるからな……」
 穏やかな笑顔で言う父さんに言葉を失った。そういえば……。義弟が道場を襲撃した時、母さんを永遠に失ったと思った父さんは落人群に身を落とした事を聞いた事があったな……。母さんが生きている事を夢の中で巴さんから聞いた父さんは、それからは必死の想いで仲間と共に義弟と闘い母さんを取り戻した。
 その事を父さんは語っているのだろう……。
「まあ、あの事件がきっかけで母さんをよりかけがえのない愛しい人だと思えるようになったがな」
 照れ笑いをしながら幸せそうに話をする父さんに、
 ――おいおい、惚気かよ――
 そんな言葉を封じ込め、俺は千鶴の住んでいる家へ向かった。
 そうだ。想いを伝えよう。取り返しがつかなくなる前に……。
 千鶴の家も、俺の家に負けじと大きい。小さい頃もよく遊びに行きその家の大きさに圧倒されたものだが、それは今でも変わらない。
「御免ください」  広い玄関にて声を出すと……
「おお、剣路君か。大きくなったな……。千鶴が心配しては泣いておったぞ」
 千鶴の親代わりでもあるお爺さんが顔を出した。
 ――ごめんな。千鶴――
 俺が横道に反れていた間も、変わらず心配してくれる人達……。再び目頭が熱くなった。
「あの……それで、千鶴は……」
「ああ、居るよ。今呼んで来るから待ってなさい」
 そう言うと、お爺さんは奥の部屋へ戻って行った。程なくして、千鶴が姿を現した。
「剣路君、久しぶりね。元気だった?」
 小さい頃と変わらない笑顔を浮かべて千鶴が話しかけてきた。
 千鶴は、雰囲気がどことなく母さんと似ている。父さんが母さんを好きになった理由が何となく分かった気がした。惚れる女性の性格も一緒かよ……。やっぱり親子だよな。そんな所に苦笑してしまう。
 そうだ……まずは、想いを伝えなければならない。
 愛おしい人達を守る為の第一歩として……。
 俺は、心を決めると千鶴に話しかけた。
「千鶴。俺は、お前の事が……」
 千鶴の表情が満面の笑みになるまで、そう時間はかからなかった。


 稽古の休憩時間に三年前の事を思い出していると、千鶴がやってきた。
「おじさま、おばさま、こんにちは! あ、剣路君いたいた!」
「こんにちは。千鶴ちゃん」
 笑顔で挨拶をする両親に
「お前なあ……来た途端その言葉かよ」
 呆れ顔で言う俺。
「いいじゃないの! 今日は、甘味所に連れて行ってくれる約束でしょう?」
「え、そうだっけ?」
「ちょっと! 数日前にした約束忘れているんじゃないわよ! まあ、いいわ。さあ、行きましょう!」
「おい、こら待て! こんな稽古の姿で行けるか!」
 そんな俺達のやりとりに、
「まるで若い頃の私たちを見ているみたいね……」
「ああ、そうだな……」
 くすくすと笑い合う仲のいい両親。いつも仲がいいよな……。まあ、そんな両親が自慢なんだけれど……。そう千鶴と苦笑しつつ、俺達は甘味所へ向かった。
 チリーン……家の風鈴が涼しげな音を立てる。
 暑い夏は……まだ続きそうだった。