明治29年6月――。
梅雨の季節に入り雨が降り続いたが、今日は久しぶりに青空が顔をのぞかせていた。
居間の壁に掛けてある暦(こよみ)が目に入った。
「そういえば、もうすぐ父さんの誕生日だな……」
6月20日……。
この日が来るまであと20日か……。何を贈ろう……?
一人前の歳になった事だし、まずは金でも貯めてからにするか……。
「母さん、俺赤べこで雇ってもらいたいんだけど……。日雇いで良いからさ」
「剣路ったら何を言い出すのかと思えば……。何か欲しい物でもあるの?」
「うん、まあ……」
稽古が休みの日、久しぶりに中庭で洗濯物を干している母さんに話を切り出してみた。
母さんは、許してくれるだろうか……?
「まあ、剣路も昔で言えば一人前の歳になっている事だし……。そこまで言うのならやってみなさい」
「ありがとう、母さん」
承諾してくれた。
言ってみるもんだな……。
「剣路が赤べこで雇ってもらうって?俺も燕も居るから安心しろよ」
道場に訪れた弥彦さんが、笑って言ってくれた。
知っている人達が居ると、心強いよな……。
父さんの誕生日まで5日と迫った今日、日雇いとして初めての給金をもらった。
「剣路君、御苦労様やねぇ。これ、給金や」
「妙さん、ありがとうございます」
封の中を見ると、10代の俺が日雇いとして雇ってもらっている分としては申し訳ない程の給金が入っていた。
「そうだ。千鶴でも誘うか……」
俺は、三軒隣の幼馴染で恋人でもある千鶴を誘いに行った。
「剣路君、どうしたの?珍しいね。剣路君から誘ってくれるなんて」
「ああ、ちょっとな……。千鶴、付き合って欲しい所があるんだ」
そんな俺達を、遠くで見ていた人達が居た。
「あら……?剣心、あの子達、剣路と千鶴ちゃんじゃない?」
「ん……?ああ、本当だな……。あの二人は、何処に行こうとしているんだ?」
「気になるわね……。ねぇ剣心、後をつけてみましょうよ」
「こらこら……。薫、止めておいた方が良いんじゃないか?」
「何言っているのよ!ほら、早くしましょう!」
買い出し帰りの父さんと母さんが、俺達の事に気がついて後をつけている事に俺達は全く気がついていなかった。
俺達は、沢山の種類がある着物を作るために必要な反物屋に来ていた。
「おや剣路君、久しぶりだねぇ。恋人と買い出しかい?」
「はい、まあ……。もうすぐ父さんの誕生日だから、父さんに似合う着物を贈ろうと思って……」
「そうかい……。じゃあ、こんな布はどうだい?」
店主の人が見せてくれたのは、爽やかな色をした群青の布だった。
「父さんに似合いそうだな……」
「そうだね」
そんな会話をしていると……。
「剣路、ありがとう……」
「この子ったら、こんな良い子に育ってくれちゃって……」
後ろを振り向くと、父さんが涙を流して喜んでいた。
母さんもだ。
おいおい、父さん感極まっているぞ……。
40(しじゅう)半ばを過ぎてから、ますます涙もろくなったよなあ……。
と思ったが、ここでようやく父さんと母さんに後をつけられている事に気がついた。
全く、父さんを驚かせるつもりだったのに――。
俺達は顔を見合わせ、苦笑してしまった。
今日は父さんの誕生日、6月20日――。
父さんは、俺達が選んだ群青の色をした着物を着て俺に稽古をつけてくれた。
着物を仕立ててくれたのは、母さんだ。
「剣心が剣路に稽古をつけるとはねぇ……。俺が10(とお)の頃を思い出すぜ。確か飛天御剣流は教えないんじゃなかったか?」
心弥に稽古をつけている弥彦さんが笑った。
「はは……。別に、飛天御剣流を教えている訳ではないぞ」
父さんも穏やかに笑う。
「えー!俺そのつもりでやってたんだぞ!」
「こらこら……。剣路は神谷活心流で強くなるんだろう?そのために父さんも出来る限り力になろうと思ったんだが……。嫌か?」
「……」
「お前の負けだな剣路。くやしかったら、お前も神谷活心流で剣心を超えてみる事だ。昔の俺のようにな」
俺達の笑い声が中庭に響く。
縁側に座り、俺達の稽古を見ていた母さんと千鶴、燕さんも笑う。
これは梅雨の晴れ間に起きた、ささやかで幸せな出来事――。