君と繋いだ手だから…

Fountain Love
〜another story〜

by のじま様

 玉座の間の赤い絨毯の上に片膝を着き、頭を垂れてギルモア王からの言葉を聞いたハインリヒは、一瞬我が耳を疑った。
「どうした、ハインリヒ? 陛下からのお言葉、勿論お受けするのであろうなぁ?」
 王の側近の一人ブリテン卿がにこやかに言ったが、それでもハインリヒは身動き一つしなかった。
 夜勤めの者と交代し、ハインリヒが帰宅しようとした所を急遽呼び出されたため、今、玉座の間に居るのはこの三人だけである。
「申し訳ありませぬが……」
 ハインリヒが乾ききった声で言った。
「今一度……御言葉をお聞かせいただけませんでしょうか?」
「これ! 何と言うことを……」
 ブリテン卿がいさめの声を上げたが、ギルモア王はにこやかにそれを制した。
「良い良い、思いがけないことに驚いたのじゃろう」
 そう言うと玉座から立ち上がり、ハインリヒの元に近づいて行った。
「のう、ハインリヒ、その方幾つになった?」
「21になりました」
「早い物じゃのう、10の歳に城に上がってもう11年か。ほんの少年だったのに今や立派に成人し、一家を構えておる。ワシの髭が白くなるはずじゃな」
 そう言って小さく声を上げて笑うと、きっぱりと言った。
「ハインリヒ! そなたに領地と屋敷と貴族の身分を授ける!! 今後は“影”としてではなくジェットの片腕として、すなわち腹心として使えてくれ!!」
「陛下!!」
 ハインリヒが初めて顔を上げた。
「いくら陛下の御言葉でも、そればかりはお受け出来ません!!」
「なぜじゃ?」
 またにこやかな顔に戻ったギルモア王が言った。
「私は……自分の立場という物をわきまえております」
「“影”の家に産まれた自分には、荷が重すぎると言うのか?」
「はい」
「だがな、お前を片腕にしてくれと言ったのはジェット自身じゃぞ」
「なんですって!?」
 彼にしては珍しく驚愕した。
「誰でも良い懐刀(ふところがたな)と言っても良いほど信頼できる者を一人選べ、出なければ外出(そとで)は許さん……と言ったらな」
 ギルモア王はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あやつめ即答しおった。『だったらハインリヒが良い』とな」
「……誠でございますか?」
「誠も、誠」
 ブリテン卿もハインリヒに詰め寄った。
「皇太子様はきっぱりと仰ったぞ。『あいつと一緒だったら百や千の、いや、1万人の敵の中にでも安心して飛び込んで行ける』とな。そうまで言われては我らも反対は出来なんだ」
「殿下がそこまで私のことを……」
「のう、ハインリヒ。これは王としてではなく父としての頼みじゃ。あれももう15、今までのような少年の遊びではもう終わるまい。そろそろ大人の世界を覗き出す。いろいろと悩みも出てくるじゃろう。その時に、何でも気軽に相談できる兄の様な存在で居てやって欲しいのじゃ……」
「陛下……」
「それにのう、お前は剣の腕だけではなく知識も広くて豊富じゃ。“影”にしておくのは、実に惜しい人材じゃ。適材適所という言葉もある。引き受けてはくれんか?」
 ハインリヒは頭を下げるとしばし考え込んだ。
「しばらく……お時間を戴けませんでしょうか? こればかりは私一人の考えで返事をする訳には……」
「お前の父からはもう良い返事を貰っておるぞ」
「……えっ?」
 ちいさく驚いたハインリヒが再び顔を上げた。
「『あれはもう殿下に差し上げた子ですから、煮るなり焼くなりお好きになさってください』だ、そうじゃ」
 そう言ってギルモア王は愉快そうに笑った。そうして再びハインリヒの瞳を見つめて言った。
「頼む、ハインリヒ。気持ちよく引き受けてくれ。わしから見てもジェットの相手を十分に務められるのはお前くらいじゃ。あれはいずれわしの跡を継ぐ。そうなれば伝統や格式に縛られ、その両肩に全国民の命運が乗る。そうなる前に、せめて皇太子時代は自由にさせてやりたいのじゃ」
 切実に訴えるギルモア王の何処か悲し気な瞳に、ハインリヒには承諾するしか道はなかった。
「……私のような者で宜しいのでしたら。この命は、初めて登城したその日から王家に差し上げております」
「おお! 引き受けてくれるか!!」
「はい」
「時に……そなたの妻、確か名をヒルダと言ったな?」
「陛下?」
 ハインリヒの胸に嫌な予感が走った。

★ ★ ★ ★ ★

 初夏の優しい光がカーテンの隙間から射し込んでいる。
 その光に揺り起こされ、ハインリヒは目を覚ました。傍らにはこの世で一番愛しい女性(ひと)が眠っている。茶色のセミロングの髪が、何も纏っていない彼女の美しいラインの肩に掛かっている。
 二人は昨日、身内とごく親しい友人を招いての結婚式を挙げたばかりだ。
 そっと肩から髪を外した。ところが、それだけでヒルダは目を覚ましてしまったのである。当たり前だ、“影”としての教育を受けた彼らは人の気配に敏感だ。ましてやそれが愛する人の物ならば……。
「済まない、起こすつもりはなかったんだが……」
「良いの、せっかくの二人だけの時間を、眠って過ごすのは勿体ないわ」
「ヒルダ……」
 二人は目覚めの口づけを交わした。
 そのままハインリヒはヒルダの身体の上に自分の身体を預けた。彼女の優しい指がハインリヒの銀色の髪をまさぐった。
「……お城には行かなくても良いの?」
 ハインリヒがヒルダから唇を離すと、彼女は物憂げな瞳で言った。
「明日いっぱいは休暇だ。城へは明後日の朝行けば良いことになっているから……」
「じゃあ、それまであなたは私一人のものね」
 優しい微笑み。だがそれはハインリヒの“夫心”を刺激するのに十分だった。
 無言でヒルダと激しい口づけを交わし、ハインリヒが彼女の胸元へと顔を移動させて行く。
「ダメ……ハインリヒ。もし……誰か来たら……」
「新婚の家庭に訪ねてくる無粋者なんていないさ」
 そのハインリヒの言葉に、ヒルダは答えることが出来なかった。切なげな表情が彼女の顔に浮かんでいる。
 庭に舞い降りたらしい小鳥達の声だけが聞こえ……。
「ハインリヒ……あなた!!」
 ヒルダの甘い絶叫が上がり、ハインリヒの首筋を通った汗が一滴、新妻の胸へと落ちた。

★ ★ ★ ★ ★

 剣と剣がぶつかり激しい火花を散らした。
 どちらもかなりの腕前だ。
 剣を交えている一人はハインリヒである。鋭い眼光。だが、汗一つ掻いてはいない。
 もう一人のヒルダに良く似た男性も、鋭い瞳でハインリヒを睨み付けている。だが彼にはハインリヒほどの余裕はない。どちらもそう変わらない年頃なのに、この違いはどうであろうか?
「諦めろ、ハインリヒ! お前なんかにヒルダをやれるか!!」
「“剣で俺に勝ったらヒルダをやる”、そう仰ったではありませんか」
「“もし”が抜けている!!」
 再び彼(ヒルダの兄だが)は、ハインリヒに斬りかかって行った。
 だが技に置いても力に置いても、どうしてもハインリヒにはかなわない。遂に彼は諦めてその場に座り込んでしまった。
「まったく……何だってそうお前は腕が立つんだ」
 呆れ返ったように言った。
「約束は守っていただけますか?」
 そう言うハインリヒに、しばらく仏頂面をしていたヒルダの兄は、妹に向かって聞いた。
「ヒルダ!!」
「はい」
 そこはヒルダの家の裏庭である。二人から離れたところに佇んで、静かに見守っていたヒルダが返事をした。
「こいつに惚れてるのか?」
「ええ」
「どのくらいだ!?」
 返事をする変わりにヒルダは無言でハインリヒに近づくと、彼の首に腕を絡めて口づけをした。ハインリヒも空いている左手だけでヒルダを抱きしめる。
 そのしぐさは二人が愛し合って日が長いことを物語っていた。それほどに、ごく自然な行為だった。
 兄が悲しげな溜め息を吐いた。
「分かった、持って行け!」
 そう言ってからハインリヒを睨み付けた。
「だがな、不幸にはするなよ。役目柄早死にするのは仕方がないが、それ以外のことでヒルダを不幸にしてみろ、一族を上げてお前を地の果てまで追いかけて行って、息の根を止めてやるからな」
「彼がそんなことする訳がないじゃない」
 ハインリヒの身体に腕を絡め、その胸に顔を埋めたままに、ヒルダが可笑しそうに言った。
 その姿に、兄は完全敗北を認めて両肩をすくめた。
 桜の花にも似た満開のアーモンドの花の下でのことだった。その花びらにも似た雪が、いつの間にか降り始めていた。
 裏の、人知れずの秘密の出入り口から城を出たハインリヒは、家路をたどった。彼が指示を出さなくとも賢い愛馬は道順を覚えていて、迷うことなく歩みを進めている。
 詰め所に戻ったハインリヒに、仲間達は何事だったのかと詰め寄った。いずれは知られてしまうことだから……と、彼が手短に説明すると、喜んで応援してくれる者も有れば、嫉妬と妬みの視線を送ってくる者も有った。
 どちらにしても、ハインリヒの肩に『皇太子の片腕』という重責が掛かったのは真実だ。
 家に帰りたかった。暖かい家に。
 暖かい……ヒルダの元に。
 思いっ切り強く愛馬に一蹴りを入れた。突然の命令に馬は驚いて後ろ足で立ち上がった。だがハインリヒは振り落とされたりはしない。巧みに制御し、駈け出させる。
 雪は益々激しくなり、ハインリヒに降り積もった。だが彼にはそんなものは苦にもならなかった。家に帰ればヒルダが待っていてくれる。こんな寒い日には必ず彼の両手を自分の手で包み込み、暖炉の側で息を吹きかけつつ暖めてくれるヒルダが。
 だが、庭に愛馬を乗り入れると異変を感じ取った。
 窓からは明かりすら漏れて来ていないのだ。彼が夜勤めの時以外は、必ずヒルダはどんなに遅くなろうと起きて待っていてくれた。
 それなのに、今日に限って……。
「まさか……」
 闇に属する者の不吉な囁きが聞こた気がした。
 愛馬を庭に残したまま、ハインリヒは我が家に飛び込んだ。
「ヒルダ! ヒルダ!?」
 静まり返った家中を探し回り、最後に台所に飛び込むと、テーブルの上には1通の手紙と、それに添えて結婚式の時に贈った指輪が置いて有った。
「ヒルダ……」
 再び闇の者の声がした。
 封を切る手ももどかしく、ハインリヒはきちんと畳まれていた便せんを開いて、文面に目を走らせた。
「ヒルダ!!」
 手紙を放り出しハインリヒは外へと飛び出した。
 雪の中でも健気に待っていた愛馬に飛び乗り、再びハインリヒは駈け出させた。
 手紙には彼女の美しい筆跡で、こう書き記されていた。
『お義父様からご出世のお話を聞きました。今までの前例から察するに、あなたにはそれに相応しい女性が国王陛下から授けられるはずです。
 私は……あなたの口から別れの言葉を聞きたくはありません。自分から去ります。あなたの未来が光り輝いている物であることを、どこからか祈っています。
 どうか、私のことは忘れてください。
 ヒルダ』
『忘れろだって!?』
 ハインリヒは心の中で叫んでいた。
『君を忘れて一人で生きて行けだって!? どうしてそんなことを言うんだヒルダ!!』
 一旦はヒルダの実家に向かって馬を走らせたが、ふと思い止まった。手綱を力一杯に引いて愛馬を立ち止まらせる。
 彼女が、そんなに簡単に見つかるような所に自分の身を置いたりはしない。
『考えろ。落ち着いて考えるんだ、ハインリヒ!!』
 自分で自分を叱りつけた。
 修道院か? いや、それだって虱潰しに探せば見つけられる。
 では何処か郊外の田舎か? 自分の知らない親戚でも居るのだろうか?
 やはりヒルダの実家に向かおうとした時だ。ハインリヒはあることに気が着いた。
 家の中は、まだほのかに暖かかったのだ。寒い雪の中を帰ってくるハインリヒのために、ヒルダは最後の勤めとして家中を暖めて置いたのだろう。
 と、言うことは彼女はまだそんなに遠くには行ってはいない。
 それに、古来よりこう言うではないか。『木の葉を隠すのは森の中』……と。ならばヒルダは!!
 ハインリヒは今度は迷うことなく王都の、それも、最も人が集まる所に向かって愛馬を走らせた。
 夜も更けた街は、それでもまだ人の姿が残っていた。
 “一夜の恋”で金を稼ぐ女達。
 ワインの入った瓶を片手に千鳥足の酔っぱらい。
 正しき道を説いて回る修道女達。
 家も職もないので有れば、王の名の元に設立された『家』に行けば良いのに、それを拒絶して道端にうずくまる者。
 最後の客を引き入れようと声を張り上げる宿屋の女将。
 その中からヒルダを探しださんが為に、馬を立ち止まらせたハインリヒは、全神経を集中させた。だがヒルダとて“影”の家に産まれた女だ。自分の気配を隠す術くらいは心得ている。どんなに馬の上で気配を探っても彼女を捉えることは出来ない。
 遂に意を決したハインリヒは馬から降りると、右の手袋を外した。
 射すほどに冷たい空気にさらされた手を、雪の積もった王都の石畳の上に、片膝を着いて静かに置いた。
『ヒルダ!!』
 瞳を閉ざし、全身全霊をかけて愛しい妻の名を心で叫んだ。
 どれくらい、そうしていたのだろう……。
 ハインリヒの瞳がゆっくりと開かれた。
「見つけたぞ、ヒルダ」
 そう呟き立ち上がると、彼は足早に歩き出した。
 言い寄ってくる女達を無視し、まっすぐに唯ひたすらにハインリヒが向かい、その肩を掴んだのは……。
 何ともみすぼらしい老婆であった。
 腰や背中は大きく曲がり、ボロボロの衣服に申し訳程度のショールを頭からすっぽりと被り、目も足も不自由なのだろう、自分の背の高さほどの杖にすがってやっと歩いていたのだ。
「な……何をなさいます」
 力のない、しわがれた声では有った。だが!!
 ハインリヒは無言でショールを剥ぎ取った。老婆が悲鳴を上げる。
 しかし次にハインリヒが、白い、艶の抜けきった髪に手を掛けると、それはいとも簡単に外れ、見慣れた茶色の髪が姿を現した。杖が手から離れ、雪の中に落ちる。
「お芝居はおしまいだ……ヒルダ」
 そう言って、素手のままの右手で側に積んであった樽の上に積もっていた、純白の雪をすくい取ると、老婆の顔を拭った。すると、たちまちに特殊な化粧は流れ落ち、ヒルダの美しい顔となった。
 最後に腰のベルトに取り付けられている革製の小物入れから、小さな小瓶を取り出すと、彼女の瞳に1滴づつ落としていく。白く濁っていた瞳が、たちまちに輝きを取り戻す。
「ほら……やっぱり俺のヒルダだ」
 そう言って抱きしめた。ヒルダの震える手がハインリヒの肩に回される。
「手紙……忘れてって……」
「そんなことが……出来る訳がないじゃないか。あの日、教会で俺が繋いだのは君の手なんだから。それなのに、君以外の女性の手を取るはずないじゃないか」
「でも……国王様が……」
「国王陛下はこう仰ったよ。“王妃が隠れてしまっている上に、今、王家には女手がない。今後王子達が花嫁を迎える様な時には頼りにしておるからな”と、君に伝えてくれとね」
「本当?」
 信じられないと言いたげに、ヒルダがハインリヒの瞳を見つめて言った。
「ああ、その為にもしっかりと夫婦して貴族の習慣を学んで欲しいそうだよ」
 苦笑してみせるハインリヒに、初めてヒルダが微笑んだ。そのヒルダの頬にハインリヒが右手を添えた。
「冷たい……」
「えっ?」
「あなたの手よ、とっても冷たいわ」
 そう言ってヒルダは両手でハインリヒの右手を包み込むと、暖かい息を吐き掛けた。
「君の手だって冷え切っているじゃないか……」
 二人は顔を見合わせると短く笑い合った。
「ヒルダ、家に帰ろう。あの家に居られるのも後わずかだ」
「そうね、帰りましょう」
 ふと気が着けば、いつの間にか側には、ハインリヒの愛馬が近寄って来ていた。ヒルダが優しくその顔を撫でる。
 ハインリヒがマントを脱ぐとヒルダの肩に掛けた。
「ダメよ、あなたがもっと冷えてしまうわ」
「女性は身体を冷やしちゃいけないよ。良いから着るんだ」
 口調は優しかったが、有無を言わせない雰囲気があった。ヒルダが振り向くと、しっかりとマントで包み込んでから、ハインリヒは愛馬の背中に彼女を乗せた。
 そうして自分も跨ると、ずいぶんと小さくはなったが、それでも降りしきる雪の中をゆっくりと家路に着いた。

★ ★ ★ ★ ★

 ずいぶんと働いてくれた愛馬の世話をハインリヒがしている間に、ヒルダは寝室の暖炉に火を入れて室内を暖めて置いた。
 それでもハインリヒは入ってくるなり、大きなくしゃみをした。
「ほら、だから何か着てって言ったのに、あなたったら要らないなんて言うから……」
「大丈夫だよ、これくらいたいしたことない」
 ヒルダが“困った人”と言いたそうな顔で微笑んだ。
「何か作ってくるわ。体を温めないと風邪が……」
 台所に向かおうとするヒルダを、ハインリヒは力一杯に抱きしめた。
「暖かいものならここに有るさ。それにとても柔らかい」
 ヒルダが今度は極上の微笑みを浮かべた。
「そうね。それに風邪は誰かに移した方が早く治るわ……」
「ヒルダ……」
 激しい口づけが交わされる。深く深く、そうして長く甘い口づけが。
 ハインリヒの肩に回されていたヒルダの指が震え出し、滑り落ちて行った。落ち切る寸前の所でその身体をハインリヒは抱き上げた。
「酷い……人。息が……続かなくなるまで……離して……くれないん……だから」
 呼吸を整えながらヒルダは訴えたが、ハインリヒは平然と言ってのけた。
「君だってちゃんと受け止めて答えていたじゃないか」
 ヒルダの顔が暖炉の炎の色に染まった。
「続きは寝台の中でだな」
「……ええ」
 うっとりとヒルダはハインリヒの肩に顔を埋めた。
 ヒルダの身体が寝台に横たえさせられる。
 サイドテーブルの上のランプの火が落とされて、燃え上がる暖炉の火が、愛し合う夫婦の影を壁に大きく映しだした。
 やがて……その火が小さくなり、部屋が闇に飲み込まれていく中、寝台の夫婦はしっかりとお互いを抱きしめ合っていた。
 冷え切っていた体はすっかり温まって、今や熱いくらいだ。
「そうだ。奥さん、これを落とされませんでしたか?」
 そう言ってまるで奇術師の様に、ハインリヒは何処からかヒルダが残して行った指輪を取り出した。
「あっ……」
 ハインリヒは驚くヒルダの左手を取ると、その薬指に改めて指輪をはめた。
「この指輪をはめる資格があるのは君だけだよ、ヒルダ」
 ヒルダが身体を横たえたままに、左手を自分の目の前にかざした。暖炉の火はもう消え掛けていたが、それでも何とか見て取れることが出来た。
「また……これをはめられるなんて思っていなかったわ」
 さりげなさを装ってはいたが、本当はうっすらと瞳に涙がにじんでいた。
「君のために、君の指のサイズに合わせて作った指輪だ。他の女性の指には似合わないさ」
 そう言いながら再びハインリヒはヒルダを抱きしめた。
「優しいのね……」
「君だけにだよ……」
「ねえ、ハインリヒ」
「うん?」
「私欲しいものがあるの」
「君がねだりごとをするなんて珍しいね。何が欲しいんだい?」
 するとヒルダはいたずらっぽい微笑みを浮かべると、ハインリヒの耳に何か囁いた。
「……では、お答えするとしますか。奥様」
 そう言った夫は妻に覆い被さった。ヒルダはこう囁いたのだ。『あなたの赤ちゃんが欲しいの』……と。
 窓の外では、相変わらず雪が降り続けていた。

★ ★ ★ ★ ★

 城の書庫で、16歳の皇太子が大きなあくびをした。
 教育係でもあるブリテン卿がじろりと睨み付ける。
「殿下、もう少し身を入れては戴けませんかな?」
「だってよぉ、退屈なんだから仕方ねえだろう」
「まったくご自分の興味のあることばかりは熱心に耳を傾けてくださるのに、それ以外となると、まるで無視。これ、ハインリヒ、その方からも何とか言わぬか」
 だがハインリヒからは返答が無かった。壁にもたれ腕組みをして俯いている。
「ハインリヒ!!」
 ブリテン卿に一喝され、彼は我に返った。
「申し訳有りません。何でしょうか?」
「殿下にもう少しご勉学に力を入れてくださるように、お前からも口添えをだなあ……」
 頭から湯気を出さんばかりのブリテン卿だったが、皇太子の方は何かに気が着いた。
「おい、ハインリヒ。お前今朝から様子が変だぜ。何か心配事か?」
 そう心配気に言って椅子から立ち上がる。
「いえ……何もございません」
「いや、絶対変だ! 俺は隠しごとをするような奴は嫌いだぞ!!」
 睨み付ける皇太子に苦笑していたハインリヒでは有ったが、ブリテン卿までも心配そうに自分を見つめていることに気が着くと、降参するしかなかった。
「実は……夜中からヒルダが産気付いておりまして、今日中にも産まれるのではないかと……」
 言葉が途切れたのは、音を立てて飛んできた分厚い本を片手で受け止めたからである。
「馬鹿!!」
 本を投げつけた皇太子が怒鳴りつけた。
「は?」
「そんな大事な時に、何でお前、ここに居るんだよ!?」
「殿方は勤めが大事……と、彼女が言うものですから」
「でもお産だろ!? お前の初めての子供が産まれるんだろう!? 何で休暇を取って側に居てやらないんだよぉ!!」
 皇太子の方はテンションが益々上がっていくのだが、ハインリヒは落ち着き払っていた。
「ちゃんと家の者が着いていてくれております。大丈夫です」
「馬鹿! 母上みたいに死んじまったらどうするんだ!!」
 一瞬の間が開いた。わずか4歳で実母を失った皇太子の悲しみが伝わって来た。
「御言葉ですが、ヒルダは亡くなった王妃様よりも若うございますから……」
「おんまえなぁ……」
 胸ぐらを掴まんと挑み掛かった皇太子の前に、ブリテン卿が割って入った。
「まあまあ、殿下。落ち着いてくだされ」そう皇太子を制してからやんわりとハインリヒに話しかけた。
「なあ、ハインリヒ。我が輩にも愚息達がおるのは知っておろうなぁ?」
「愚息などと……皆さま御優秀ではありませんか」
「いやいや、お前さんにはかなわんよ」
 そう言って片目をつむると更に言葉を続けた。
「我が輩は長男の時から立ち会ったぞ。あれは“見苦しい所は見せたくないから、部屋の外で待っていてほしい”と言ったがな、我が輩はそんな言葉は無視した。そうして母となった後にはこう言うたぞ、“着いていてくれて心強かった”とな」
「ブリテン卿……」
「そうだ、ブリテンの言うとおりだ! 帰ってやれ、ハインリヒ!!」
 そう叫んでから、皇太子は威厳を纏って言った。
「ハインリヒ、これは命令だ。無事に子供の顔を見るまでお前は休暇だ。即刻帰宅しろ」
「ですが……」
「お前が出てくるまでは……」
 皇太子は椅子に腰を下ろした。
「勉学に励んで、城で大人しくしている。だから帰ってやれ」
「殿下……」
「何度も同じことを言わせるんじゃねえぞ」
 そう言って本を開いて目を通しだした。
 ブリテン卿も“任せておけ”と言わんばかりに頷いた。
「それでは、ご命令に従います」
 机の上に本を戻してから、ハインリヒが軽く一礼したが、もう皇太子は返事もしなかった。
 退室したハインリヒが、それでも足早に愛馬の元に向かい、駈けに駈けさせ屋敷に帰ると、元気な赤ん坊の産声が響き渡っていた。
「ヒルダ……」
 廊下を駆け、寝室の扉を開けると、お産を手伝っていた家の者達が口々に祝いの言葉を述べたが、ハインリヒは返事もせずに真っ直ぐにヒルダの枕元に向かった。
「ヒルダ!」
「あなた……お勤めは?」
 疲れてはいるようだったが、それでもしっかりと返事をするヒルダの顔を見て、ハインリヒは安堵の溜め息を吐いた。
「殿下に君がお産中だとばれて追い帰されたよ。ご苦労だったね」
 寝台の端に腰を下ろし、ヒルダの頬に右手を添えたが、彼女は浮かない顔をした。
「どうした?」
「……ごめんなさい」
「何がだい?」
「赤ちゃん……女の子なの」
 ハインリヒが優しい微笑みを浮かべて、ヒルダに口づけをした。
「君も赤ちゃんも元気なんだ、それ以上何も望まないよ。変なことを気にするんじゃない」
「……あなた」
 瞳の端に涙を浮かべるヒルダに、ハインリヒはもう一度優しい口づけをした。
「あの……旦那様」
 自分を呼ぶ声にハインリヒが振り向くと、おくるみにくるまれた赤ん坊を抱いたメイド頭が立っていた。
「良くヒルダを助けてくれた。礼を言うよ」
「とんでもありません。ひとえに奥様がしっかりとしておいででしたからですわ」
 口先だけではなく、心から彼女がそう言っているのは表情から明らかであった。ハインリヒとヒルダは貴族の位となったとは言え、優しい主人夫婦であったから、家の者達も気持ちよく働いてくれている。
「さあ、お嬢様。お父様ですよ」
 メイド頭がそっと赤ん坊をハインリヒの腕に移した。
 茶色い髪をした小さな赤ん坊が、白いおくるみの中から顔を出していた。
「君に良く似ている……」
 ヒルダの方に向き直ったハインリヒが言った。
「さっき少しだけ目を開けていたの。あなたの家の血を引いたのね、薄いブルーの瞳だったわ」
「そうか……」
 言葉少なではあったが、身体からにじみ出る嬉しさは隠せなかった。そうしてそっと愛娘をヒルダの隣に降ろした。
「ねえ、名前、考えてくれた?」
「当たり前だろう。とっくに決めてあるよ」
「早く教えて」
「この子の名前は……」
 ハインリヒが名をヒルダに伝えると、何と赤ん坊が返事をするかの様に小さな声を上げた。

★ ★ ★ ★ ★

 ゆっくりとではあるが、小さな手がピアノの鍵盤を叩いていた。目は必死に楽譜を追う。
「焦ることはないのよ。ゆっくりとでも確実に覚えれば良いのだから」
 隣に座っているヒルダが優しく言うと、6歳になった娘はにっこりと微笑んだ。
「はい、お母様」
 再びピアノが歌い出した時だ、ハインリヒが緊張を隠せない面持ちで入って来た。ヒルダが敏感にそれを感じ取り、椅子から立ち上がる。
「あなた?」
「隣国と……戦になる」
「やはり、避けられなかったのですね」
 ピアノの側で立ち止まったハインリヒの前に、近づいて行ったヒルダが言った。
「ああ、国王陛下も出来れば避けたかった御様子だったが……」
 少女が椅子から降りると、ハインリヒにしがみついた。
「お父様、戦に行かれるのですか?」
 そう言って悲しそうな目で父を見上げた。
 ハインリヒが腕を伸ばして愛娘を抱き上げる。
「ああ。皇太子様の行かれる所には、必ず同行する。それが父の勤めだ」
「でも、帰って来てくださるのでしょう?」
「もちろん。だが、もしかしたらお前にも働いて貰わなければならないかもしれないぞ」
 幼い娘に向かってとんでもないことを言うハインリヒに、さすがのヒルダも驚いた。
「あなた?」
 娘を抱いたままでヒルダに向き直ったハインリヒは言った。
「隣国の姫は御歳17歳。国王陛下に置いてはその姫のことをお前に頼みたいそうだ」
「私にそんな大役を!?」
「ああ。隣国の王家は国民から恨まれている。陛下に置いては無事に我が国へ御一家揃ってお連れせよと殿下方に御命令された。危険な任務だが引き受けてくれるか?」
「ええ」
 何の迷いもなくきっぱりとヒルダは答えた。
 そのヒルダの左手を、ハインリヒは右手で娘を抱いたままに、やはり左手で取った。
 二人の薬指のペアのリングが光る。
「俺と結婚したばっかりに……苦労を掛けて、済まない」
「苦労しているなんて思ったことは一度もないわ。むしろ、私ほどに幸せな女は居ないと思っているわ」
 悲痛な面持ちで言うハインリヒとは裏腹に、ヒルダは優しい微笑みで言った。そんな両親の繋がれた手の上に、娘も小さな手を置いた。
「私も、お父様とお母様の娘に産まれて幸せだと思っています」
「俺達だってお前が娘に産まれて来てくれて幸せだと思っているよ」
 ヒルダがその言葉に同意を示すように、右手を娘の手の上に置いた。
 家族の手の温もりがそれぞれに伝わって行く。
 それから間もなくして戦は圧勝に終わったが、隣国の姫にとっては悲しい結果となった。傷心の姫に、ヒルダは母娘揃って良く仕えた。
 ハインリヒはその全忠義心を掛けて王家に仕え、引退を許された後は貴族の位を返上し、ヒルダと二人、名も知れぬ静かな土地でその生涯を終えたと言う。