禁断の森の恋人達

Fountain Love
〜another story〜

by のじま様

 夕日で染め上げた様な見事な赤毛の駿馬の上で、ジェットは盛大な溜め息を吐いた。いったい今日、何度目の溜め息だか。
 思わず後ろでハインリヒは苦笑した。彼は青毛の愛馬に跨っている。
「そんなにお嫌なら、お断りになれば宜しいだけでしょうに」
「それができねえから困ってるんじゃねえかよ」
 ちらりっとジェットは後ろに目をやった。
「親父殿と来たらいきなり、“お前ももう成人したんだから花嫁を選べ”と来たもんだ。冗談じゃないぜ」
「では花嫁選びの舞踏会を開く……と言う案をご承知なさったので?」
「いや……それだけは勘弁してくれって必死で説き伏せて、やっと諦めて貰った。だいたい俺が『成人の義』を行ったのは去年の話だぞ! 親父殿は気が早すぎる!!」
 燃え上がる炎のようなオレンジ色の髪をしたジェットは、怒りに肩をふるわせて右手を握りしめた。
 ここは中世の時代のとある大きな国。王家が所有する、貴族ですら立ち入ることも許されていない森の中。
 前を行くのは皇太子のジェット。皇太子にしてはいささか口が悪いのは、彼が市井に通じているからだ。少年の頃から何度となく城を抜け出しては王都の街に潜り込み、当時はまだ“影”であったハインリヒが見つけては連れ戻していた。
「国王陛下は、御歳を得てから授かった殿下方が愛おしいのですよ。その愛おしい殿下方に早く花嫁を迎えていただいて、御子様の顔を見せて欲しいとお望みなのでは?」
 それを聞いたジェットの肩がげんなりと落ちた。
「その気持ちは分かるんだよなぁ。俺達と親父殿が並ぶと、『親子』と言うより『祖父と孫』だからなぁ。だがな、ここで迂闊に花嫁なんか選んで見ろ? 子供が出来て見ろ? 今度は王位を継げと言い出すに決まってるんだ!!」
「国王陛下は御歳の割にはまだまだお元気です。いきなりそんなことはありますまい?」
「お前は良いよなぁ、ハインリヒ」
 ジェットは手綱を引いて馬を立ち止まらせた。ハインリヒも手綱を引いたが、突然のことだったので二騎は並んで立ち止まる形となった。
「ヒルダとは相思相愛で結ばれたんだろう?」
「……どうして私ども夫婦の話になりますので?」
「良いから聞かせろよ。前からきちんと聞いてみたかったんだ。どういう経緯があって彼女を花嫁に選んだんだ?」
 しばらくハインリヒから返答は無かった。
 彼はあまり感情を表に出すことはないが、その剣の腕前は国内外でも知らぬ者は無く、剣を交えた者達は“背後で死神が加護しているのを見た”と、必ず恐れおののくのだ。
 ハインリヒの銀の髪を、森の優しい風が掠めて行った。
「彼女とは幼なじみで……その……お互いの家が代々王家の“影”を務めて来たと言うことで自然に交流もありまして、気がついたら一緒にいるのが当たり前……になって、結婚したのです。まさかその後でいきなり“殿下の片腕になれ”と命令されるとは思ってはいませんでしたが……」
「親父殿も俺もお前の優秀さは認めている。“出歩くのは良いが、その代わりに懐刀(ふところがたな)と言っても良いほどの片腕を一人選べ”、そう言われたらお前の顔しか浮かばなかったんだ」
「他にも良家の御子息は居たでしょうに……」
「お前ねえ、俺が幾つの時から城に上がったのよ?」
「弟君が御生まれになった年でしたから、確か殿下は御歳4歳だったはずです」
「そしてお前は10歳だった。大人しく勉学に励むより、城の中を探索し回る俺に着いて来れたのはお前だけだった。何処に潜り込んでいたってお前は俺を見つけた。街の雑踏の中に紛れ込んだってお前は必ず俺を見つけ出す。そんなお前以外に適任者がいるか? どうせ一緒に歩き回るんなら、血筋じゃなく気の合う奴で選んで何が悪い?」
「その代わりに、“殿下は文章ではなく身体で覚えていくタイプだ。しっかりとお守りして皇太子としての自覚をお持ちになるようにお導きしろ”、と、父から散々に言い含められました」
 ハインリヒが苦笑して見せた。その顔を見たジェットが声を上げて笑った。
「お前の親兄弟は元気か?」
 手綱を鳴らして馬を歩き出させた。少し遅れてハインリヒもそれに続く。
「おかげさまで“出世息子を出した家”と羨ましがられているようですが、父は“あれは自分の実力で出世しただけで、私の力ではない”と素知らぬ顔をしているようです」
「お前の親父らしいな」
「それよりも、お后選びをどうなさるおつもりで?」
 忘れて欲しくてわざと話題を逸らしたのに、どうやらハインリヒにはその手は通じなかったらしい。再びジェットの肩がげんなりと落ちた。
「すでに花嫁にと……諸外国から肖像画が幾つも送られて来ているのでしょう?」
「いずれは……選ばなければいけないな、とは思っている。だがな、どうもどれを見てもピンと来ないんだ。出会ったことも声を聞いたことも無い女を選べ、つまりはいずれ妻として抱けと言われても、とてもそんな気にはなれないんだ」
「我が国の貴族のご息女の中に、気になるお方はいらっしゃらないので?」
「いたらとっくに親父殿に名前を伝えてる。どの家の娘を見てもその気にはならない。まだ娼館の女達の方がましだ」
「そんなことが国王陛下のお耳に入ったら、逆鱗に触れることになるかと……」
「かまわないさ、ここにいるのはお前だけだ。それに……回りに誰かいるのか?」
 ジェットがまたちらりと後ろを見た。信用しているからこその発言であり、よほどの手練れでも彼から気配を消すなど不可能だ。  ハインリヒの回りの空気が一瞬“ピ−ン”と張りつめた。
「……信じられませんが」
「どうした?」
「人の気配がします。かなり離れてはおりますが」
 それを聞いたジェットが、右手の指を二本唇に当てて鋭い口笛を吹いた。
 その合図に二人にまとわり付いて歩いていた猟犬達が、ガラリと表情を変え、一斉に駆けだした。
 彼らもやっと風が運んできた僅かな“獲物”の匂いに気づいたのである。ジェットの愛馬がその後を追って駈ける。ハインリヒの愛馬がそれに続く。
 匂いが濃くなってくるのだろう、犬たちが興奮の度合いを増した。
 木々の間を縫うようにして走り、森の中の小さな野原に出た。猟犬達は一気にその野原を駆け抜け、大きな茂みを半円に取り囲んだ。
 ジェットが馬を立ち止まらせ、背中の矢筒から矢を引き抜き、弓につがえた。
 ハインリヒも愛馬から飛び降り、剣を抜いてジェットの愛馬の隣に並ぶ。
「出てこい! 何の目的でこの森に入り込んだ!? 今なら命だけは助けてやる!!」
 そう叫ぶジェットの弓の弦がいっぱいに引かれ、キリキリと音を立てた。
 猟犬達も威嚇のうなり声を上げた……その時だ!
「ダメよ!!」
 若い女性の静止する声と同時に、茂みから真っ白い生き物が飛び出して来た。大きさはゆうに猟犬達の3倍はある。だが身体の作りは何処を見ても細い作りのスピード感溢れる物だ。
 その生き物の一唸りで、猟犬達は後ずさった。だが戦う意志は消えてはいない。お互いが牙を見せて唸り合った。
「ハインリヒ……こいつは何だ? 狼には見えねえぞ」
「おそらく……異国の犬種と思われますが」
「これが……犬だって! こんな馬鹿でかいのが!?」
 警戒を緩めないままにジェットが叫んだ。
「狼は北方の国に行けば行くほど大きくなります。犬にも多種多様な種類がおります。もう少しご勉学を……」
「今はそんなことを言ってる場合じゃねえだろうが!!」
 ジェットが弓を射るために片目をつぶった。
「止めて! 止めてください!!」
 叫び声が上がった。
 白い巨犬が飛び出して来たのと同じ茂みから、誰かが飛び出して来た。まだ若い……街の娘だった。
 長い長い栗色の髪。それを一つのお下げ髪にして、オレンジのチェックのスカーフで束ねていた。大きく見開かれた瞳の色は極上の琥珀。そうして何よりも美しかった。
 巨犬に駆け寄るとその首にしがみついた。
「射らないでください! 私の犬です、殺さないで!!」
 そう叫んでジェット達を真っ直ぐな瞳で見つめた。
 ジェットが弦を緩め、矢を筒に戻す。
「射殺したりはしない。犬達を守ろうとしただけだ」  そう言いながら愛馬から降り、弓を鞍に掛ける。彼が指を鳴らすと猟犬達は警戒心を解き、巨犬のそばから離れて、一つ所に固まって座った。
「珍しい犬だな、何処の国のだ?」
 近づきながらそう質問したジェットに、娘は相変わらず真っ直ぐな瞳で見つめたまま言った。
「存じません」
「確か……今、自分の犬だと言わなかったか?」
「旅の一座から貰った犬ですので。この子は私の大事な友人である以外、どんな種類の犬であるかなど興味はございません」
「何の為にこの森に入った? 街の人間にとっては“禁断の森”だろう?」
 娘は答えない。ただ真っ直ぐな、強い瞳でジェットを見つめている。
「殿下。どうやら理由はこれのようです」
 剣を鞘に戻し、娘が飛び出してきた茂みに分け入っていたハインリヒが、手提げカゴを持って出てきた。中には木綿で縫った袋が幾つも入っていた。
「なんだ?」
「薬草です。それもかなり専門的な知識を持った者の集め方です」
「お前の歳で、医者……ってことはないな。親が医者か何かか?」
 だが娘は何も答えようとはしない。怯えている様子は見えないが、ただじっと二人を見つめている。
「ずいぶんと意志の強い娘のようですな」
 ハインリヒが呟いた。
「あなたは……皇太子様ですね」
 突然娘がジェットに向かって言った。
「そうだ。名前は……」
「ジェット様ですね?」
「ああ」
「私は……禁を犯したのですから、どうぞお手討ちにでも何にでもなさってください。ですがそのカゴとこの子はお許しください。そのカゴの中身を待っている人達がいるのです」
「この国には貧しくても治療を受けられる制度があるはずだぜ?」
「それはあくまでもこの国の住人であることが条件。貧しい旅人や、流離い人は門前払いにされます」
「何だって!?」
 ジェットが怒りの声を上げた。
「それが本当の話なら、そんな医者は俺がとっちめてやる!!」
「……どうかカゴをお返しください」
 再び強い口調で娘が言った。
 ハインリヒの手からカゴを取ると、ジェットは娘に向かってそれを差し出した。
「ありがとうございます」
 笑顔でカゴを両手で受け取った娘が、愛犬に向かって言った。
「さあ、これを持ってお帰り」
 だが犬はカゴを受け取ろうとはせず、悲しそうに鼻を鳴らした。
「お願いよ。良い子だからこれを持って帰って。私は大丈夫だから。ね? お願いだから」
 娘の訴えに、ついに犬はカゴの手提げ部分をくわえて歩き出した。だがもう少しで森の中に入ると言う所で振り向いた。
「行きなさい」
 優しい口調だった。だが犬にとっては絶対の言葉だったのだろう。後はもう振り返ることもなく森に消えて行った。
 その姿を見送っている娘の横顔の、何とも悲しげな瞳を、ジェットはただひたすら見つめていた。
 不意に娘がジェットの方に向き直った。二人の視線がぶつかった。
「……それで、私はどのような咎を受ければ宜しいのでしょう? 殿下」
「お前に罪は無い。他人の為にここに来たのだろう? そんなお前を切る理由は無いぜ」
「ですが“禁断の森”に入ったことは事実です。どうか罰をお与えください」
「だったら交換条件だ。ハインリヒがああ言うからには、お前には多少なりとも医学の知識が有るな? それは誰に教わった? 家は何処だ? 名前は何と言う? 質問に答えたら無罪放免にしてやるぜ」
「答えれば……私以外の者が罰を受けることになります」
 どこまでも真っ直ぐな強い瞳で娘は答えた。
「分かった。そこまで覚悟が出来ているなら……」
 ずいぶんと低い声でそう言いながら、ジェットは腰の剣を抜いた。
「望みどおり手打ちにしてやる」
 剣が振り上げられる。太陽の光が反射して光った。一分の迷いも無く、剣は娘の額へと振り落とされて行く。
 音も立てずに……栗色の髪が数本、娘のエプロンの上に落ちた。
 だが娘の瞳は開かれたままだ。恐怖で竦んで閉じられないのでは無い。明らかに自分の意志で目の前で止まっている剣を、そうしてジェットを見つめていた。
「たいした度胸だ」
 そう言いながらジェットは剣を鞘に戻した。
「気に入った。その度胸に免じて無罪放免にしてやる。それから、これからもこの森に入るのは自由だ」
「殿下!?」
 それまで黙って事の成り行きを見守っていたハインリヒが、さすがに驚きの声を上げた。
「この娘のおかげでこの国に立ち寄る連中が困っていることが分かったんだ。そのぐらいは許してやっても良いさ」
「国王陛下様から……お叱りは受けませんか?」
 そう言ったのは娘だ。
「親父殿とて俺と同じ意見さ。“あの国に立ち寄っても迂闊にケガや病気が出来ない”なんて噂が立って立ち寄る者が減ったら、そんな連中を相手に商売をしている街の連中が干上がっちまう」
「……そのとおりですな」
 ハインリヒもジェットの言葉の意味を理解した。
 ジェットは腰のベルトから小さなナイフを抜き取った。鞘には王家の紋章と彼の名前が刻み込まれている。
「もし誰かに咎められるようなことがあったらこれを見せろ。森番にはお前のことは話しておく」
「痛み入ります。殿下」
 娘はそう言って両手でナイフを受け取った。そうしてしっかりと立ち上がると、スカートの端を持って礼をし、二人の前から立ち去ろうとした。
「ちょっと待った!」
 不意にジェットが娘を呼び止めた。
「お前の名は? そのくらいは教えてくれよ」
 だが娘は立ち止まったまま、こちらを振り向きもせずこう言った。
「高貴なお方が……野辺の花の名など知る必要はありませんわ」
 そうして森の木々の中へと姿を消して行ったのだ。
「たいした娘ですな。“影”にもあれほどの者はなかなか居ません」
 感心したようにハインリヒが言った。
 だがジェットからの返事は無かった。
「……殿下?」
 ジェットはただじっと娘が姿を消した方向を見つめていた。それはハインリヒが今まで見たこともないような真剣な瞳だった。
『これは……困ったことになったかもしれないな』と、ハインリヒは心中で密かに溜め息を吐いた。

★ ★ ★ ★ ★

 ジェットがハインリヒすらも連れずに、森を散策する日々が何日か続いた。
 約束をした訳でも無い。娘が再びこの森を訪れるという保証も無い。
 木漏れ日の中、愛馬の上でジェットは溜め息を吐いた。
『あんな娘のことが気になって仕方が無いだなんて……どうかしてるぞ、ジェット。帰るか』
 そう思って馬を振り向かせようとした時だ。
 風に乗って微かに歌声が聞こえた。歌っているのは若い女性の様だった。間違いなくあの娘の声だ。ジェットは耳を澄ませながらも、馬をゆっくりと歩かせる。
 歌声は次第に大きくはっきりと聴こえて来る様になった。歌声に混じって小川のせせらぎも聞こえる。
 ついにジェットは娘を発見した。
 森の中の小川の側に娘が座って歌っていた。傍らにはあの白い愛犬が寝そべっている。そうしてあの手提げカゴ。長い栗色の髪は、今日も後ろでお下げにしている。束ねているのは初めて出会った時と同じオレンジ色のチェックのスカーフ。
 その姿にジェットは一瞬我を忘れた。
 歌っているのは何の歌だろう? たとえ今までが辛くても、今日を一生懸命生きよう、明日には良い出来事がきっと待っているから。そんな希望に満ちた歌を明るい声で歌っていた。
「お前には医学の知識だけでなく、歌姫の才能もあったんだな」
 馬の手綱を手頃な木に括り着け、側に近寄りながら言った。だが有る程度の距離まで近づくと、娘の愛犬が警戒の視線を送ってきたので立ち止まった。
「恐れ入ります、殿下」
「この間の薬草は役に立ったのか?」
「はい、お陰様で。それだけではなく国王陛下様のおふれのお陰で、誰でもきちんとした治療が受けられるようになりましたので、近頃働きすぎで疲れ気味だった家人もほっとしております」
「家人ね……相変わらず家族の誰が医者なのかも教えてはくれないんだな」
 娘は“そうだ”と言わんばかりに、強い瞳でジェットを見つめた。
「隣に座ってもかまわないか?」
「御身分の有る御方が、戯れ心など起こしてはなりません。それに……あなた様の“恋”の噂は聞き及んでおります」
 娼館の女達にも同じ様なことは言われて来た。だが、どこ吹く風と受け流していた。ところがこの娘に言われた途端、まるで胸が刃物で抉られたように痛んだのだ。
 一瞬変わったジェットの顔色を、娘は見逃さなかった。
「噂は……あくまでも噂だったのですか?」
「いや……俺が娼館に出入りしているのは本当だ。そんな男は嫌いか?」
「いいえ、男の方が美しい女性を求めるのは、ごく自然なことだと思います。それを私に強制されることには怒りを感じますが……」
 相変わらず警戒の視線を送り続ける愛犬の頭を、娘は優しく撫でた。犬が『仕方がないな』というような表情でジェットが近づくことを許した。
 その犬が間になるように、その上少し離れてジェットも娘の左隣の草の上に腰を下ろした。
「誰かに強制されているのか?」
「あくまでも……たとえばの話ですわ」
「お前は美しい上に度胸があって頭も切れる。さぞ花嫁にと望む男も多いんだろうな」
「犬を友人扱いする変わり者扱いですわ」
「その連中はお前の本質を見抜いていないだけだ。そんな連中は相手にすることはない」
 娘の表情が驚きに変わった。
「なんだ?」
「いえ……父と同じことを申されましたので」
「お前の親父は、お前のことをちゃんと理解してくれているんだな」
「恐れ入ります。その父が案じますので、今日はもう失礼いたします」
 そう言った娘がカゴを手に立ち上がると、犬もそれに習った。
「どうしても、名前も教えてくれないんだな」
「殿下、世の中には知らなくとも良い……と言うことがあるのです」
「分かった。だが……また会えるか? お前の歌声が気に入った」
「私の声で宜しいのでしたら。毎日参ると言う訳には参りませんが……」
「分かった、俺が探す。俺の口笛が聞こえたらその犬に返事をさせられるか?」
「はい。ですが一度この子に口笛を聞かせてくださいますか? 覚えさせませんと」
「いいぜ」
 ジェットが指を口に当てて鋭い音を立てた。犬は真剣な表情でそれを聴いていたが、“覚えた”と言わんばかりにしっぽを振り、一声遠吠えを空に向かって響かせた。
「では失礼いたします」
 そうして娘は去って行った。
 だが、それからも二人は何度となく出会いを重ねた。
 意志の強い娘は決して自分の素性も明かさず、そればかりかジェットに指一本触れさせることもなかったが、その強い意志と歌声と優しい微笑みを彼は愛おしく思った。
 いや、心の奥底から“欲しい”とさえ思った。
 だが力ずくで奪えば、彼女の顔からその微笑みは消えるだろう。そうして二度と自分のために歌ってはくれなくなる。
 それが分かっているからこそ、ジェットは必死で自分を押さえていた。
 初めて出会ってから一つの季節が巡った、そんなある日のこと。
 いつもの様に自分の口笛に答える犬の元にジェットが向かうと、そこに娘の姿は無かったのである。
「今日はお前一人か? 主はどうした?」
 しょんぼりと俯いて座っている犬にジェットが近づくと、その首輪には見慣れたスカーフが結びつけられていた。それを解くと、犬は後も振り返らずに真っ直ぐに何処かへと消えてしまった。
 スカーフには何かを包んでいる感触が有った。中を開くと何かの紙を引きちぎって畳んだ物と、娘に渡したナイフが入っていた。紙を開くと口紅らしき紅い文字で、しかも走り書きで『もう二度とお目にかかれません』との別れの言葉……。
「一体、何があったんだ」
「殿下、あの娘はまもなく花嫁となります」
 突然の声に立ち上がりつつ振り向くと、いつの間にかそこにはハインリヒが立っていた。
「なんだって!?」
 驚いて叫ぶジェットとは裏腹に、ハインリヒの口調は何処までも淡々としていた。
「実に良くある話です。彼女の父親が医者でした。その恩師の孫が彼女を花嫁にと望んだのです。断れば父親が二度と医者として働けなくなるようにすると脅しまして……」
「お前! 何でそれを知っている!?」
「実はずっと殿下とあの娘のことは、影ながら見守らせていただいておりました。もちろん国王陛下直属の“影”達もです。その一派が娘の素性を調べ上げました」
「親父殿にあの娘のことを話したのか!?」
 ジェットは医療の改善については父王に報告したが、それをあの娘から聞いたことまでは話してはいなかったのである。なぜか……秘密にしておきたかった。
「いいえ。殿下の御様子がいつもと違うのを陛下が感じ取られまして、命令された様です。殿下、殿下は本気であの娘を欲しておいでなのですか?」
「ああ、本気だ! あいつを城に入れる、もちろん正妃としてだ!!」
「殿下の正妃様と言うことは、いずれこの国の王妃様になるわけです。その重責にあの娘が堪えられると御思いですか?」
「あいつは確かに平民の娘だ。だがその心はその辺の姫にも負けない! お前だって見ただろうが!?」
「あの時のことを……先日国王陛下に内密に呼び出され、報告いたしました」
「親父殿に!?」
「それほどの娘……しかも殿下がお気に召しているのなら、全ての責任を持って己の思うままに行動せよとのことです」
「親父殿の許可がなくともそうする!! 何処に行けばあいつを手に入れられる!?」
「今はまだ日が高うございます。強奪は夜の闇に乗じてと決まっております」
 ハインリヒが、まさに彼を加護しているとされている“死神”のような不敵な笑みを浮かべた。

★ ★ ★ ★ ★

 夜の幕が下りた王都の街の一角の、かなり高級な部類に入る仕立て物屋のドアを、強引に蹴り破る者があった。
 闇で染め上げたような黒衣にマントの男は、単身乗り込んでくると、店の者達を剣で脅して控えの部屋に押し込めた。
 後に残ったのは花嫁衣装を纏ったあの娘と、結婚相手らしい男のみ。震えながらも一応娘を背中に庇って立つ男に向かって、黒衣の男は言った。
「その娘が気に入った。俺のものにする。命が惜しかったらさっさと出ていけ」
 その声を男の背中の影の中で聞いた娘の瞳が、大きく見開かれた。『まさか……』と。
「じょ……冗談じゃない! やっと手に入れた娘だぞ!! 何で盗賊なんかに……」
 言葉が途中で途切れたのは、剣で着衣をびりびりに切り刻まれたからだ。だがその肌には傷一つ着けてはいない。見事な剣の腕だった。
「自分の命とその娘……どちらが大事だ?」
 喉元に剣を突きつけられ、凄みのある声で引導を渡された男は、何事か喚きながら外へと飛び出して行った。
「情けない奴だ。あれでも男か」
 剣を鞘に戻しながら、黒衣の男が吐き捨てる様に言った。
「嘘です……」
 娘がやっと聞き取れるほどの声で呟きながら、後ずさった。
「あなたが……あなたがこんなことを……」
「迎えに来た。俺と一緒に来い」
「ダメです……私とあなたでは……」
 ついに背中が壁に当たって立ち止まった娘を、ゆっくりとした足取りで近づいた黒衣の男……いや、ジェットが、優しく抱きしめた。
「やっとお前に触れられた。一緒に来い。お前があんな男の好きにされるだなんて、俺には耐えられない」
 娘は両手を口に当てて涙ぐんでいた。
「ダメです。私とあなたでは身分が……それに、それに、父がどんな仕打ちを受けるか……」
「その点もちゃんと考えてある。家も名も何もかも捨てて俺に着いて来い。お前は……俺のものだ!」
 そう言って目じりに優しいキス、そうして次は唇に激しいキスを贈った。娘の両手がジェットの肩に回される。
「そんな花嫁衣装なんて脱いじまえ。お前には俺がもっとふさわしい奴を着させてやる」
「……一人では脱げません」
「だったらこうする」
 そう言うなり花嫁衣装の胸元を掴んだと思うといきなり引き裂いた。まだ仮縫いの段階だった衣装は簡単にバラバラになり、娘の足元に落ちた。
 下着姿になった娘を脱いだマントで包み込むと、ジェットはしっかりと抱き上げた。そうして店の外へと運んで行く。
 表では彼の愛馬が待っていた。その背に娘を乗せてから、ジェットも軽々と跨った。
 遠くから人々の声と足音が近づいて来る。
「あの男め……役人に知らせたな」
「殿下……」
 娘が不安そうな表情でジェットの胸にしがみついた。自分の身が心配なのではない。皇太子ともあろう者が、こんな“事件”を起こしたと知られては王家に傷が付く。それを心配しているのだ。
「お前は何にも心配するな」
 そう言うと馬に一蹴り入れて駈け出させた。
「ただ俺を信じて着いてくれば良いのさ」
 ジェットの愛馬は風よりも早く石畳の王都の街を駈け抜けて行く。役人達の声は見る見るうちに小さくなり消えて行った。
 その代わりに今度は馬の蹄の音と、何か大きな生き物が駆けつけてくる息使いが聞こえて来た。
「どうやら、上手くやったらしいな」
 ジェットが言った。
「賢い犬です。庭で散々暴れていたのに、私の気配を察した途端に大人しくなって着いて来ました」
 ジェットの左隣を愛馬で走るのはハインリヒだ。そうして二騎の間を走るのは、娘が友人とも呼ぶあの白い犬だ。
「殿下!?」
 娘が驚きの声を上げた。
「あいつはお前の大事な友達なんだろう? 珍しい犬だから、毛染めを使って色を変えなければいけないが、そのくらいは我慢してくれるか?」
「殿下!!」
 娘が喜びの声を上げ、ジェットの胸に顔を埋めた。
「しっかり掴まってろ。もっと飛ばすぞ」
「はい!!」
 さらに速度を上げた馬は街を通り抜け、川の中を通って匂いを一旦消し、やがて一つの大きな屋敷の門の前に出た。待ちかねていた門番が門を開け、二騎と一頭が中に入るとしっかりと門を閉ざした。
「ここは?」
 ジェットの腕の中で娘が言った。
「親父殿の側近の一人、ブリテン卿の屋敷だ。お前はここで貴族の娘に生まれ変わり、俺の后になるんだ」
「私に……勤まりますでしょうか?」
「ここまで来た以上、後戻りはさせない。絶対にだ!!」
 二騎は静かに煉瓦の敷き詰められた庭の道を、屋敷へと歩いていく。その後ろから娘の犬も大人しく着いて来る。
 屋敷の玄関の扉は開いていて、そこで一人の男が一行を待っていた。
「お待ちしておりました、殿下」
「世話を掛けるな、ブリテン」
 馬から降りながらジェットが言った。そうして娘に手を貸して馬から降ろすと再び抱き上げた。
「こいつが話しておいた娘だ。一年だけこいつを預ける。その間に貴族の娘としての知識を叩き込んでくれ」
「承知しております。すでに部屋も用意してございます。今、案内させます」
 ブリテンが手を打つと、ランプを手にした侍女が静かに近づいて来て挨拶すると、案内のために歩き出した。
「お待ちください、殿下」
 娘を腕に抱いたまま、侍女の後を着いて階段を上がり掛けたジェットに、ブリテン卿が声を掛けた。
「二人っきりの夜を過ごされるのはかまいませんが、くれぐれも……」
 ジェットが振り向いて睨み付けた。
「それ以上は言うな。老婆心が過ぎるぞ」
「これは……失礼いたしました」
 ブリテン卿がうやうやしく礼をした。

★ ★ ★ ★ ★

 白いシーツの上に……深紅の薔薇の花が一輪。それは、この娘があの男に汚されていなかった何よりの証。
「お前の処女(おとめ)の証……確かに貰ったぜ」
 腕の中の娘の額に優しいキスを贈ると、娘がはらはらと涙をこぼした。
「……どうした?」
「さっき……あの店で……あの男に……これから私が処女(おとめ)かどうか確かめると、耳元で囁かれて……」
「なんだって!?」
 ジェットが怒りの声を上げた。
「私が薬草を持ち帰るのも、どうせ何処かで男と密会しているのを誤魔化すためだろうと……」
 握りしめている娘の手が怒りに震えた。
 まだ結婚式もあげていない娘の純血を確かめると言うことは、あの男がこの娘自身ではなく、その身体が目的だったことを物語っている。夜を徹してでも花嫁衣装を急がせていたのもそのせいだろう。
「あの野郎、そんなヤツだったのか。切り捨ててやれば良かった!」
「虫酸が走りました。殿下に……差し上げておけば良かったと後悔しました」
「お前はもう俺のものだ。誰にも渡さない、安心しろ。だからもう泣くな」
「はい……殿下」
「その“殿下”って言うのは二人っきりの時は止めてくれ。特に寝台の中にいる時の俺はただの男だ、名前で呼んでくれ」
「ジェット様と?」
「“様”もいらねぇよ。敬語も使うな」
 娘の涙を優しく指でぬぐい取る。
「……ジェット、で、良いの?」
 ためらいがちに娘が言った。
「そう、それで良い」
 そうして娘の息が詰まるほどの激しいキスをした。
「そう言えば……お前の名前、まだ聞いていなかったな」
 すると娘がクスッと微笑んだ。
「なんだ?」
「だって“名前を捨てろ”って」
「ああ、そうか」
「何か名前を付けて。私はあなたの腕の中で生まれ変わったんですもの。あなたに名前を考えて欲しいわ」
「……そうだなぁ」
 ジェットは考えを巡らせた。初めて見る編んでない娘の長い髪を指で散々もてあそぶ。幼い時の記憶が一瞬脳裏を過ぎった。
「“アケーシア”はどうだ?」
「アケーシア? 異国風の名前ね」
「ああ、子供の頃に旅の吟遊詩人が語ってくれた女戦士の名前だ。他の名前が良いか?」
「いいえ、気に入ったわ」
「良し。それじゃあ、今からお前はアケーシアだ」
 そうして再びジェットは娘を……いや、アケーシアを求めた。
 ブリテン卿が遠い親族の、身寄りのなくなった美しい娘を引き取った……と言う話はたちまち貴族達の間で噂となった。
 “ぜひ我が家にお連れください”と、事有るごとにブリテン卿は誘われたが、“田舎育ち故、まだきちんとした礼儀を知りませんのでな。その内参上させまする”とアケーシアを庇ってくれた。
 季節は瞬く間に巡り、王都はすっかり白い雪で覆われてしまった。
 その日、ジェットは久しぶりにブリテン卿の屋敷を訪れた。もちろん内密に、でだ。
 彼を出迎えたブリテン卿が憮然とした顔をした。
「殿下。お忙しいのは分かりますが、もう少し足を運んでやってくださいまし」
「“花嫁を迎えるなら勉学に励め”と、親父殿の見張りが厳しくなったんだから仕方ねえだろ。アケーシアはどうしている?」
「あの娘(こ)も努力しておりますぞ」
 ジェットを案内して先に歩き出した。
「家庭教師達が口を揃えて教え甲斐のある生徒だと申しましてな、そればかりか私ども夫婦を“父上”“母上”と呼んで慕ってくれまして。とうとう娘には恵まれなかった家内などは、いずれ殿下にお渡しする日が来るのかと思うと悲しいと言って泣きまする」
「お前の家内には悪いことをしたな」
「いえいえ、アケーシアのためにドレスや宝石を選ぶのが楽しくて仕方のない様子です。あまりに酷いので“母上、私は着せ替え人形ではないのですよ”と、やりこめられてからはだいぶ落ち着きましたがな」
「あいつらしいな」
 ピアノの音とそれに合わせて歌うアケーシアの声が聞こえて来た。森で歌っていた時の声も素晴らしかったが、きちんとした教育を受けた見事なソプラノが、恋の歌を歌っていた。
「先日社交界にデビューさせましたが、すでにあの歌声が知れ渡っておりましてな、是非にと頼まれて歌ったところ絶賛されました。その場で“我が家でも歌ってください”との申し込みが殺到いたしましたぞ」
「まさか……全部引き受けたのか?」
「いやいや……そんなことをすればあの子の身が持ちません。適当に見繕って何件か行かせただけです」
 一つの扉の前に来た。歌声はその中から聞こえて来る。
「殿下。あなた様は実に人を見る目をお持ちです。“影”でしかなかったハインリヒを、片腕にと仰ったときは正直言って驚きましたが、今では誰もがあの者の優秀さを認めております。そうしてアケーシア、あれは見事な原石でした。磨けば磨くほど光る宝石の様に。さあ、ご覧ください……」
 ブリテン卿が扉を開いた。
 その音にアケーシアが歌うのを止めた。ゆっくりとこちらに振り向き、ジェットに気がついて静かな微笑みを浮かべる。
 その姿を見たジェットが驚いた。
 そこに居たのはもう森で出会った街の娘ではなかった。艶を増し光りを反射させる髪は美しく結い上げられ、シルクのリボンで飾られていた。胸元や耳を飾る宝石類はシンプルだが高級な物だ。彼女がどれだけ“母親”にきめ細かな愛情を注がれているのかが分かる。
 ジェットの瞳の色と同じ青いドレスを着たアケーシアは、どこからどう見てももう貴族の娘だった。
 ピアノを弾いていたブリテン卿の妻が、静かに退室してドアを閉めた。その場はジェットとアケーシアの二人っきりとなった。
「……別人かと思ったぞ」
 近づいたジェットがアケーシアの顎を持ち上げてから、彼女を腕の中に包み込んで深い深いキスをした。
「見た目が変わっただけよ……」
「いや、確かに雰囲気も変わったぞ……なんだか顔色が悪いな、無理をしているんじゃないのか?」
「無理なんて……確かにここのところ夜会やお茶会の連続……」
 それ以上言葉が続かなかった。一気に青ざめたアケーシアの身体が崩れ落ちそうになる。
「アケーシア!!」
 叫んだジェットが抱き止めた。
「ブリテン!! 誰か居ないのか!?」
 その声にブリテン卿夫妻が飛んで来た。
 ジェットの手で寝室まで運ばれたアケーシアは、医師の診断を受けた。
 その間別室に身を潜ませていたジェットは、ただイライラと待つしかなかった。彼とアケーシアのことは一般には非公認なのだ。医師に姿を見せる訳にはいかなかった。
 やっと診断が終わって医師は帰り、ブリテン卿が報告にやって来た。
「どうだった?」
「いや、一瞬懐妊しての貧血かと思ってひやりとしましたぞ」
「ブリテン!!」
 本気で怒っているジェットの迫力に押されて、ブリテン卿は冷や汗を掻いた。
「ご安心を、少し疲れが溜まっているだけで、しばらく養生すれば元に戻るそうです。もう意識も戻っておりますので、話せますぞ」
 それを聞いたジェットは部屋を飛び出すとアケーシアの寝室に向かった。扉を開けて中に入ると、てっきり横になっているとばかりに思っていたアケーシアが、白い夜着姿で窓の外の雪を見ていた。
 結い上げられていた髪も今は下ろされている。
「横になってなきゃダメじゃないか」
「ジェット……いいえ、殿下にお願いがございます」
「アケーシア?」
「私……私を……野辺の花に返してください」
「アケーシア!?」
 ジェットが驚きの声を上げた。
「今日のことで……はっきり分かりました。私は殿下にはふさわしくありません。やはりもっと……」
 無言で近づいたジェットがアケーシアの左肩を掴むと、乱暴にこちらを向かせた。彼女は涙を流していた。
「今更……今更野辺の花に返るだと? ふざけるな!!」
 両肩を掴んで激しい口調で責め立てた。
「社交界にデビューして、殿下のお住まいになっている世界を知れば知るほどに思い続けていました。私達は住むべき世界が違うのだと……」
「アケーシア!!」
「その名ももうお忘れください。どうか……どうか私を……」
 涙を流して訴え続けるアケーシアを、ジェットはしっかりと抱きしめた。
「いやだ。お前が俺の前から消えてしまうだなんて、そんなことは絶対にいやだ!」
「殿下……」
「皇太子の俺について来れないと言うのなら、そんなもの弟のジョーにくれてやる! お前と一緒に流浪の旅に出ても良い!!」
 そうはっきりと言い切ると、さらにアケーシアを抱く腕に力を込めた。
「殿下!?」
今度はアケーシアが驚きの声を上げた。だが顔を上げることすら出来ない。
「それに……お前にはもう返るべき所はない。お前の産まれた家はもう跡形もなく壊させた。家族はお前の知らない所で暮らしている。第一お前は“強盗に略奪された女”だぞ、街の連中がそんな女を受け入れると思うのか?」
「でしたら修道院に入ります。過去をすべて忘れたと偽って、一生神に仕えて過ごします!」
 必死にジェットの腕の中から出ようともがくが、それは無理な話だった。
「アケーシア!!」
「お願いです……」
 もがくのを止め、やっと聞き取れるほどの声でアケーシアが言った。
 そのアケーシアの身体を無言で抱き上げて、ジェットは寝台へと向かった。
「……お許しください」
 か細い声で訴えながらも両手で顔を隠した。
「なにもしない。お前は今疲れているだけだ。一晩ぐっすりと眠ったら、またいつものお前に戻る。ずっと着いていてやるから」
 アケーシアを寝台に横たえて寝具を身体に掛けてから、ジェットも隣に潜り込んだ。こちらに背を向けるアケーシアを背中から抱きしめる。
「……殿下」
「何も言うな。何も考えるな。ただ深く眠ることだけを意識しろ。だがこれだけは分かってくれ。俺の心はもうお前で満たされている。この想いはもう他の女では埋めることは出来ない。それだけは分かってくれ」
「殿下……」
 アケーシアの頬をまた一筋の涙が伝わった。それはいったい何の涙なのだろう?

★ ★ ★ ★ ★

 寝台のきしむ音と、誰かが髪に触れている感触にジェットは目を覚ました。
 傍らで身体を起こしたアケーシアが、寂しげに微笑んでいた。
「起きたのか……」
「昨日言ったこと……本気?」
「どれだ?」
 そう言いながらジェットも身体を起こした。
「皇太子の位を捨てて、私と流浪の旅に出ても良いって……」
「ああ、たった今から出ても良いぜ」
「あなたに……そんな苦労は掛けられないわ」
 その時になってやっとジェットは、アケーシアが普通の言葉を使っていることに気が付いた。両手でアケーシアの頬をそっと包み込む。
「やっと……いつものお前だな。やっぱり疲れてたんだな、無理したんだろう?」
「“母上”の喜ぶ顔を見ていると、つい“疲れているから”と言いづらくて。“父上”には内緒でいくつかの場に出席したの。それに……」
「うん?」
「“父上”に、“殿下の心は常に自由を求めている。お前に殿下の足枷になれとは言わない、狼には洞穴が、荒鷲には巣が必要な様に、殿下の憩いの場となってくれ。これは殿下をお慕いしている家臣一同からの頼みだ”、そう言われたら、その……」
「重圧感を感じたのか?」
「ええ……普通の恋人同士の様にはいかないな、と」
 ジェットはアケーシアの頬から手を離すと、その両手を強く握りしめ、きっぱりと言った。
「苦労は……掛けると思う。だが不幸にはしない。お前を悲しませたりはしない。約束する!」
「……ジェット」
「俺の正妃となるからには、いずれお前は王妃だ。辛いこともあると思う。だがその時は俺に甘えれば良い。その変わりに俺だって辛い時にはお前に甘える。何でも自分一人で背負い込もうとするから疲れるんだ。いいな?」
「ええ、分かったわ」
 アケーシアがそれはそれは優しい微笑みを浮かべた。それはあまりにも美しすぎた。
「アケーシア……」
 ジェットは愛しい女性(ひと)を抱きしめた。そうしてそのまま寝台に横たえさせる。
 アケーシアの胸元のリボンが音を立てて解かれた。
 “自分のことをジェットが求めている”、アケーシアは敏感に察した。
「ダメよ、もう朝日が昇るわ。“母上”が様子を見に……」
 押し離そうとするアケーシアの右手を取ると、ジェットはその手の平にキスをした。
「俺が出て行くまで誰も来ねえよ。心配するな」
「ジェットったら……」
「早くお前を“本当”に抱きたい。婚儀の日までは懐妊させるわけにはいかないからな。“気”を贈るのは我慢しているんだぜ」
 アケーシアの頬が紅の色に染まった。
 そんな彼女が愛おしくて、ジェットはその額にも優しくキスをした。
「愛してるぜ、アケーシア」
「私もよ」
 二人は今度は深く甘く長いキスを交わした。
 後はただ愛し合う者同士の時間が流れた。
 その数ヶ月後、ジェットは約束どおりアケーシアを正妃に迎えた。
 数え切れないほどの宝石で飾られた花嫁衣装を身に纏い、皇妃の証である冠を頭に飾り、ベールの中から戸惑いがちに自分を見つめるアケーシアに、ジェットは安心しろと言わんばかりの激しいキスをした。
 婚儀の後、華やかに行われたパレードを見ていた民衆の中から、何か騒ぎ立てる男が居たが、“影”達の手で黙り込まされた。
 隣国との戦いが勃発したのはそれからまもなくである。
 礼拝堂で愛する人の無事と自国軍の勝利、そうして犠牲になる者が少しでも少なくあって欲しいと願う妻に、夫は『新婚早々お前を未亡人にはしねえよ』と笑って言った。
 さらに歳月を経てギルモア王が静かに崩御した後、ジェットは王位を継承し国王となった。その隣には常にアケーシアが寄り添っていたそうだ。
 多くの子供達に恵まれ、家臣や国民に慕われ、その明るい性格から『太陽王』とまで呼ばれ、穏やかに国を治め、先王がそうした様に生涯王妃ただ一人を愛したという。
 だがその国が何処に有ったのか、そうしてジェットとアケーシアの墓が何処にあるのかは、広大な歴史の流れの中に埋もれてしまい、今はもう知ることもできない。