Fountain Love

by のじま様

 その泉は、まだ誰も触れたことのない、聖なる泉。
 いま、その泉に近ずかん者あり。彼の者は、その衣服からして、王子なり。
 泉の底には裸体の処女(おとめ)。肩を抱いてうつむき座る、その姿の美しさ。
「……フランソワ−ズ」
 岸辺にひざまずき、ささやく王子の声に、彼女の胸は鼓動を早める。
「……僕が……恐いの?」
 静かに首を振る。
「だったら……僕を見て。恐れないで……愛しているから……フランソワ−ズ」
 指でそっと水面に触れる。波紋が広がり、優しい波動が彼女を包み込む。
 思わず……フランソワ−ズの口から甘い声が漏れる。
「君が嫌がるようなことは何もしやしないよ。だけど……本当の君に触れるためには……傷つけてしまうことを許してくれるかい?」
 フランソワ−ズが……小さく、うなずいた。
「だったら……僕を見つめて、恐れないで、愛しているよ」
 今度は水面に優しく口付ける。
 先程よりも強い、けれども優しい波動が、フランソワ−ズを包み込む。
「……僕を見て!」
 フランソワ−ズが震えながらも水面を仰ぎ見た。そうして……その両腕を広げた。
 王子が泉に身を躍らせる。
 その衝撃にフランソワ−ズの顔が苦痛に染まる。
 水中では王子も裸体。そう、愛し合う二人に身を包むものは何も必要ない。
 王子は、その二本の腕でしっかりと愛する人を抱きしめる。
 フランソワ−ズの閉ざされた二つの瞳から涙がにじんでこぼれ落ちた。
 それに気がついた王子が言った。
「君に……こんなことをする僕が嫌いかい?」
 ハッとなったフランソワ−ズがその青灰色の瞳を開いた。
「いいえ……いいえ! 私……私も!!」
「……愛してる?」
「愛しています。愛していますわ」
 そういって王子の背中に腕を回し、その名を呼んだ。
「……ジョ−。……ジョ−!!」
「僕も……愛しているよ、フランソワ−ズ」
 二人は激しいキスを交わした。

★ ★ ★ ★ ★

「これ以上無駄な血は流したくない! 戦う意志の無い者は、即刻立ち去れ!!」
 栗色の髪に茶色の瞳。鎧をまとった騎士が叫ぶ。マントが床に届かんばかりに長い。
 火の手が上がる城の一角。絨毯を敷きつめた廊下は、この城の王のプライベートな区域だろうか?
 十人余りの親衛隊員らしき服装の者達が、剣を抜き、騎士の行く手を塞いでいるのだ。
 隊長らしき人物が一歩前に出た。
「失礼ですが、騎士殿、御名をお聞かせいただきたい」
「……ジョ−だ」
 その名を聞いた一同が驚いた。
 そうして隊長は、その騎士の鎧の胸元を飾る、小さな紋章に注目した。間違いなくそれは、今戦っている隣国の王家の紋章ではないか。
「ジョ−……と言うお名前から察するに、第二王子様で有らせられますな」
「いかにもここにおいでの御方は、我国の第二王子様で有らせられる」
 王子に付き随っている、黒い肌の騎士がきっぱりと証言した。名をピュンマと言う。
「あなた様の御父上は失礼ながらすでに御高齢。せめて皇太子で有らせられるあなた様の兄上にこの場を突破されたと有っては、我々もあの世で死んでいった仲間達に合わす顔がございます。しかし、ほとんど初陣と言ってもいいようなあなた様にここを突破され、王の首を取られたと有っては我々は死んでも死に切れませぬ!」
「だったら、俺に切られるのは何も文句が無いって訳だ」
 ジョ−の背後から声がした。廊下の角を曲がって姿を現したのは、やはり鎧をまとった長いマントの騎士、抜き身の剣を肩に置き、殺気をみなぎらせながら近づいてくる。
 彼の後ろにも、銀髪の騎士がつき従っている。名はハインリヒと言う
「兄上!」
 ジョ−が叫んだ。
「殿下!」
 ピュンマも驚いて壁ぎわに下がり、皇太子のために道を開けた。
 オレンジ色の髪をした皇太子はジョ−の横に立つと、剣を下に降ろしてこう言った。
「皇太子のジェットだ。俺達に王やそのご家族の首を取る気は無い。そこを退け」
 だが親衛隊員達は動かない。いや、動けないのだ。ジェットの放つ殺気と威圧感に身体がすくんでしまっている。
「そこを退けと言っているんだ!!」
 まさに次代の王者が放つに相応しい声であった。
 完全に戦意を喪失してしまった彼らは剣から手を離し、廊下の両端にゆっくりと移動すると、二人の王子のために道を開けた。
「陛下はどちらだ?」
 剣を鞘に戻しながらジェットが言った。もちろんジョ−もそれに習う。
「この先の……広間にございます。殿下」
 隊長が答えた。
 その言葉にうなずくと、ジェットは歩みを進めた。
「ハインリヒ、ピュンマ、後は頼んだよ」
 静かにそう言って、ジョ−もジェットの後を追った。
 二人の王子は重い鎧をまとっていると言うのに、それをものともせぬ足取りで廊下を進み、やがて一つの部屋にたどり着くと、ジェットが両手で扉を押し開いた。
 悲鳴が起こった。王妃らしき中年の女性が、ジョ−と然程変わらないほどの王女を抱きしめて床に座り込んでいた。
 王女のおびえ切った青灰色の瞳と、ジョ−の茶色の瞳が空中で交わった。
 二人の前には剣を抜いた王が、目を血ばらせて立っていた。
「それ以上近づくな! 説教臭いギルモア王の息子達め、王位や財宝を奪われても、我が家族には指一本触れさせぬぞ!!」
「失礼ながら陛下」
 ジェットが静かに言った。
「我が父は略奪を最も好みませぬ。ましてや先王と我が父は友人だったではありませぬか。“無事に御一家をお連れもうせ”、それが我らが父より受けた命にございます」
「……連れ帰ってどうするつもりだ?」
「王家の客分としてお迎えし、静かな暮らしをお約束いたします」
「つまりは、幽閉すると言うことではないかぁ!!」
 そう叫ぶなり王はジェットに切りかかった。だがジェットは剣を抜かない。
 見事な動きで王の剣を避け続ける。もっとも王の剣の腕前は語れるものではない。完全に剣に振り回されていた。
「ジョ−、王妃と姫をお連れ申せ。じきにここにも火の手が回る」
 余裕な顔でそう言ってのけた。
「はい、兄上」
 ジョ−が二人の女性に近づこうとしたときだ。王妃がジョ−を睨み付けた。
「私も一国の王妃! 敵の情けは受けませぬ!!」
 そう叫ぶなり、隠し持っていた短刀で胸を貫いたのだ。
「なんと言うことを!!」
 ジョ−が叫んだ。
「お母様!!」
 姫も悲しい声を上げた。
「フ……ランソ……ワ−ズ」
 床に倒れた王妃が、震える手を上げて娘の名を呼んだ。
「そなたも……姫ならば……最後はいさぎよく。敵の王子などに凌辱される前に……清い身体のままで……」
 それが、王妃の最後の言葉だった。母の手を取ってその言葉を聞いていた、フランソワ−ズと呼ばれた姫が、うなずいてそっと手を置くと、自分の左手にはめた大きな真珠の指輪に右手を添えた。
 それを見たジョ−が飛びついて左手の手首をにぎり締め、高く持ち上げた。
「離して! 触らないで!!」
 フランソワ−ズが叫んだ。
 だがジョ−は力を緩めない。そうして指輪を無理矢理に引き抜く。
「姫、この中身は毒ですね? 自害などお止めください!」
「妻よ! そなた一人を冥府への旅には出さぬ!」
 突然叫び声が上がったかと思うと、なんと王が自らの首すじに剣を当て、かっ切った。ジェットが止める暇もなかった。血飛沫が上がり、王の身体が音を立てて床に倒れた。
「お父様ぁぁ!!」
 金切り声にも近い悲鳴が上がった。
 度重なる両親の死に、ついに姫の神経は耐えられなくなり気を失った。ジョ−がその身体を受けとめ、そうして抱き上げた。
「……兄上」
 愚かな夫婦の死体を、ジェットは苦い顔で見つめていた。
「父上からのお叱りは俺が受ける。あんななまくら剣の王が自害する勇気があるなんて思わなかったんだ。とにかく、姫だけでも無事にお連れするんだ」
「……はい」
 すでにきな臭い匂いが漂ってきていた。
 二人の王子は、かつては王の団らんの間だった、そうして今は最後の間となった部屋を後にした。

★ ★ ★ ★ ★

「フランソワ−ズ……フランソワ−ズ!」
 ああ、この声はお母様。ご無事だったのね。それならば、今までのことは全て恐ろしい夢だったの?
「フランソワ−ズ、母は今までおまえの可憐な心を汚したくなく、教えておかなければならぬことを教えていませんでした」
「それは何ですの? 母上」
「夫婦には“昼の生活”があれば“夜の生活”と言うものもあるのです」
 そう言って具体的に話して聞かせた。母の語った話にフランソワ−ズは驚いて、そうして赤面した。
「愛し合った者どうしならまだ許されます。しかしこのたびの戦い、どう見ても我が国が不利、城が落ちれば美しいおまえが野蛮な男達の刃に掛かることは目に見えています。その時のためにこの指輪を授けておきます。いざとなったらこの中身を飲むのですよ」
「何が入っているのです?」
 だがその質問に答えはなかった。ふと気がつけば、自分は真暗な闇の中、血の海の中に立っていた。足下には血の気のない両親の死体。
 言葉にならない悲鳴を上げた。
「姫様、お気を確かに! 姫様!!」
 聞き覚えの無い声に目を覚ました。
 長い茶色の髪の女性が自分をのぞき込んでいた。
「お気がつかれましたか。姫様」
「あなたは誰? ここは……何処?」
「私の名はヒルダと申します。国王陛下から姫様のお世話を命じられました。ここは国境を越えた村の、ある貴族の別邸でございます」
 そう言って彼女はスカートの端を持ち、うやうやしく礼をした。
「国境を越えた?」
 自分が産まれた国から連れ出された。その事実にフランソワ−ズの胸は痛んだ。
「それではここはもうギルモア王の国なのね。私はそんなに長い間気を失っていたの?」
「はい。大変なお苦しみようで、姫様付きに命じられたもの全員が案じておりました」
「私のことを……心配していた? 私は敗戦国の姫、捕虜として扱われてもいいのに、どうしてそこまで?」
「すべては国王陛下のお決めになったことです」
 そう言ってヒルダはフランソワ−ズを安心させるためか、微笑んでみせた。
「国王陛下も王子様方も、皆様大変お優しい方達ばかりです。姫様は何も御心配なさることはございません」
 だがフランソワ−ズにはその言葉が信じられなかった。扉の向こうから聞こえてきた怒号、自害しようとした自分の手首をつかんだ恐ろしいほどの力、あの二人の王子の中に優しさが有るなどとはどうしても信じられなかった。
 それに、このヒルダと名乗る女性も信用してもいいものか?
「姫様、御食事をなさいますか? それとも、御入浴をなさいますか? お城に居たときと同じ様になさってかまわないのですよ」
「何もほしくないし、何もしたくないわ」
「……姫様」
「私のことは、放っておいて」
 そう言ってヒルダから顔を背けた。
「一人になりたいのよ」
「……承知いたしました。しかし御用の折りはいつでも私の名をお呼びください。かならず参上いたします」
 衣擦れの音がして、ヒルダが退室した音がした。
 一人っ切りになった途端、現実が音を立てて襲ってきた。
 母の胸に刺さった短剣。そこから流れていた血。父の首から噴き出した大量の血飛沫。
 そうして……自分はあの恐ろしい王子のどちらかに汚される。
 涙が次から次とあふれて止まらなかった。
『あの時……お父様やお母様と一緒に死ねたら良かったのに』
 ただ悲しみだけが、フランソワ−ズの胸を支配していた。
 その時だ。
「王子様! 王子様!!」
 窓の外から幼い少女の声がした。
『こんなところに……子供が?』
 好奇心にかられて、ゆっくりとベッドの上に身体を起こした。着せられているのはゆったりとした夜着。随所にレースやリボンが使われた、贅沢な作りの物だ。とても“捕虜の姫”に着せるような物ではない。
 ベッドのそばには、見事な刺繍が施された、室内用の履物まで用意されていた。それに足を通し、カーテンの閉ざされた窓に近づいた。ほんの少しだけカーテンを開き外を伺った。
 自分が居る部屋は2階だった。窓の下は、青々とした芝生の敷かれた庭園。そこに置かれたベンチに、あの栗色の髪の王子が平服姿で座っていた。驚いたことに、乱暴者だと思っていた彼と、幼い少女が何か会話をしているのだ。
 王子は優しい微笑みを少女に向けると、フランソワ−ズの居る部屋に向けて顔を上げた。その表情は、悲しげだった。苦しげだった。
 王子の茶色の瞳が自分を捕えたのではないかと、あわててフランソワ−ズはカーテンを閉じた。
 分からなくなった。
 両親と居た部屋に飛び込んで来た時の彼は、吟遊詩人の語る荒ぶる神のようだった。それなのに今の彼は、おそらく家臣の娘であろう少女に、まるで優しい兄のような笑顔を見せていた。
 いったいどちらが本当の彼の姿なのだろう?
 もう一度カーテンを開くと、何と王子は立ち上がり、少女を抱き上げているところだった。
『家臣の娘を抱き上げるなんて!!』
 亡くなった父はそんなことは決してしなかった。幼い頃の自分には何人かの“遊び相手”が選ばれていた。だがあくまでも父は家臣として扱っていた。
 抱き上げるのはただ自分のことだけだった。
「……ヒルダ。ヒルダ!」
 すぐに扉が開いてヒルダが姿を現した。
「御用は何でございましょう? 姫様」
「ヒルダ、あれはどういうことなの? 説明して!!」
 いぶかしげな顔をして窓に近づいたヒルダは、小さく驚きの声を上げた。
「まあ、あの娘ったら……なんてことを」
 その言葉に今度はフランソワ−ズが驚いた。
「あの女の子は……あなたの?」
「はい。姫様の気晴らしになればと思いまして同行させたのですが、すっかり王子様に懐いてしまって……。王都に戻ったら夫にきつく叱ってもらわなければ」
 戦場にも近い国境の村に、幼い娘を連れてまで自分のために来てくれた。どうやらヒルダは信用して良い女性のようだった。
「あなたの伴侶は、今、王都に居るの?」
「はい。第一王子のジェット様の、幼い頃からの側近ですので、常に行動を共にしております」
「……では、あの方は?」
「第二王子様です。お名前はジョ−様と申されまして、姫様の護衛の為に残られました」
「……残った?」
「落城の折り、御自分の判断が甘かったばかりに姫様の御母上を死なせてしまったと、だからせめて姫様だけは無事にお守りして王都にお連れしたいと申されまして」
 フランソワ−ズがジョ−のほうに視線を戻すと、少女の乳母らしい女性が、彼女の手を引いてこちらに向かっているところだった。
 それを見送っているジョ−の表情を見たフランソワ−ズがハッとなった。
 その瞳には悲しみが、深い深い悲しみが、浮かんでいたからだ。
 再びベンチに腰を降ろしたジョ−が、ポケットから何かを取り出してしばらく見つめ……それを両手で目頭のあたりに当てて、俯いた。
 その両肩が、震えているように見えるのは気のせいだろうか?
 姫として友好国の歴史についても学んでいたフランソワ−ズだったが、先王が隠れた後、国交を絶ってしまった為この国のことはほとんど知らないと言って良かった。
「あの方はいったいどうしたの? なぜ、あんなに悲しそうなの?」
 今まで、どんな質問にも即答してきたヒルダが口ごもった。
「……ヒルダ?」
「こればかりは……私の口から申し上げてよろしいものかどうか」
「なぜ?」
「返って王子様の悲しみを深めてしまう結果になりはしないかと……」
「あなたから聞いたなんて言わないわ! だから……お願い!!」
 悩んでいたヒルダがフランソワ−ズの真剣な眼差しに、ついに折れた。

★ ★ ★ ★ ★

 ギルモア王にはなかなか子供が授からなかった。
 王妃ただ一人を愛する王に、家臣達は側室を設けることを勧めた。王妃自身の口からもその話題は出た。
 だがギルモア王は拒み続けた。
 そうして誰もが諦めかけた頃、やっと王妃は身籠もり、元気な第一子を、しかも世継ぎである男の子を生み落とした。
 それが第一王子のジェットである。
 誰もが安心し、これで国の行く末も安泰だと思った。
 だが王妃は、ジェットのためにどうしても兄弟を産みたいと主張した。
 王は反対した。実は医師団は、ジェットの出産だけでも王妃の年齢を考えると無事だったのが不思議だったと、王に伝えていたのだ。
 しかし王妃の決意は強かった。そうして“今まで身籠もらなかったのに、再度身籠もるわけが無い”、そう思っていた王に、“懐妊しました”と王妃が告げたのは、ジェットが3歳の年だった。
 王妃が無事に出産できるように、王はあらゆる手を尽くした。
 第二子は無事に産まれた。再び王子だった。そう、その第二子こそジョ−だった。
 だが……とうとう王妃はその腕にジョ−を抱くことは出来なかった。出産で体力を使い果たし、日に日に衰弱していき、間もなく亡くなってしまったのだ。
 成長し、母の死の原因を知ったジョ−は自分を責めた。だが父である王も、兄のジェットもジョ−を一度も責めたりはしなかった。
“おまえを無事に生み落とせて、満足して死んだのだから、自分を決して責めるな”
 そう言ったのだ。
 だがそれ以降、ジョ−は快活に笑うことはなくなった。特に一人のときにはその悲しみが心の奥底から浮かび上がり、彼を支配するようになってしまったのだ。

★ ★ ★ ★ ★

 青い天幕の寝台の中にいると、まるで泉の底にいるようだ。
 ならば彼女は僕だけの泉の精霊。
 腕の中で眠るフランソワ−ズをジョ−は優しく見つめる。もう一度……彼女がほしかった。
 けれど……疲れて眠っている彼女を起こしても良いものか、しばらく迷った。
「フランソワ−ズ……」
 そっと呼びかける。
「フランソワ−ズ?」
 もう一度呼びかけ、額に優しく口付けると、短い言葉が唇からこぼれ落ち、長いまつげが何度か瞬きし、フランソワ−ズが目を覚ました。
「……ジョ−?」
「起こして……ごめん。でも……どうしても、もう一度君がほしいんだ」
 それを聞いたフランソワ−ズが、頬を赤らめた。
「私は……いついかなるときも……あなたのものです。どうしてそんなことを仰るの?」
「……疲れているんじゃないかと思って」
 苦笑してみせるジョ−に、フランソワ−ズは愛情あふれる優しい微笑みを浮かべた。
「身体は確かに疲れます」
 そう言いながらジョ−の胸に顔を埋めた。
「けれど、心はあなたからの愛で満たされて行きます。ですから……平気ですわ」
「フランソワ−ズ!」
 ついに耐えられなくなって、ジョ−はフランソワ−ズに激しい口付けをした。口付けは首筋に、肩に、胸にと移動していく。
 その胸を、ジョ−は優しく両手で愛した。
 すでにジョ−に愛されることに喜びを覚えてしまった身体が、ジョ−が贈る行為の一つ一つに反応した。フランソワ−ズの口から甘い声と共に愛する人の名が何度ももれる。
 二人の身体の間の空間が無くなった。
 広い部屋の片隅の、燭台のろうそくが揺らめく。
 フランソワ−ズの大きな喜びに満ちた声が、小さく控え目に上がったのはそれからまもなくだった。

★ ★ ★ ★ ★

「ようこそ、姫。大きく……いや、お美しくおなりじゃ」
 ギルモア王が穏やかな笑顔を浮かべてそう言った。
 長い旅路の果てに王都に着き、ヒルダが夜の闇に乗じて案内したのは、城内の王のプライベートな領域の一部屋だった。
「私をご存じなのですか?」
 驚くフランソワ−ズに、王は懐かしむような遠い目をした。
「“かわいい孫が生まれた。是非見に来い” そなたの祖父からそのような書状をもらいましてな。祝いの品など持って国境を越えたのがつい昨日のことの様じゃ。そなたの成長を誰よりも楽しみにしておったのに、あんなに急に逝ってしまいおって……」
 ソファ−に座る王が、右手で目を覆った。大事な友を失った悲しみが蘇ったようだ。
「親父殿……」
 平服姿のジェットが声を掛けた。
「ああ、いかん、いかん。歳を取ると涙脆くなってしまうものじゃ。姫、紹介しておこう。ここにおるのがワシの家族じゃ。こちらが……」
 そう言って自分の右側に立つジェットを示した。
「皇太子のジェット、少々市井に通じすぎておるので口は悪いが、責任感の強い男じゃ」
「お国の城では失礼を。お父上をお救い出来なかったのは誠に残念です。完全に俺の油断でした」
「ジェット!」
 王がたしなめたが、フランソワ−ズは少し悲しそうな顔をしてこう言った。
「王たる身でありながら、取り乱し、皇太子様のお言葉の真意を判断できなかった父が悪いのです。お気になさらないでください」
「そう言ってくださるか」
 王が安心したように微笑んだ。
「これが戦況報告に戻ってきて、御両親をお救い出来なかったと聞かされたときは、家臣の前でとは言え叱りつけてしもうた。やはりワシが自分で出向いて行くのじゃったと後悔しもうした」
「父上に、戦はもう無理です」
 ジョ−が王の左肩に手を置いて優しく言った。
「父上は考えることのみに専念され、兄上が行動し、私がその補佐をすれば良いのです。それに、この度のことは兄上だけに非が有るわけではありません。あの場には私も居たのですから、兄上だけを責めないでください」
「おまえは優しいのう。ジョ−」
 王がジョ−の手を取って言った。
「ああ、姫。これは第二王子のジョ−、もっともここまでの道中同行しておったのですから、すでにご存じでしょうが」
「お名前だけはヒルダから……けれど、こうして直接お声を聞くのは、ほとんど始めてですわ」
 その言葉にジェットが、むっとした顔をした。
「失礼!」
 そう言うなりジョ−の服の襟首を掴んで部屋から引っ張り出そうとした。
「あ……兄上?」
「いいから、来いジョ−! 話がある!!」
 そのまま部屋から出ていってしまったのだ。
「あの……」
 フランソワ−ズが心配そうに兄弟が出ていった扉を見ていたが、ギルモア王は然程心配などしていないようだ。
「あの二人はいつもああなのですよ。だが決して仲が悪いわけではありませぬ。心配なさることなどありませんよ」
「でも、私……心配です。様子を見てまいります」
 そう言って座っていたソファ−から立ち上がり、部屋を出た。
 廊下に兄弟の姿はなかった。だが微かに聞こえてきた声を頼りに二人を探すと、少し離れたバルコニーで兄弟が言い争っていた。
 立ち聞きなどは、はしたないことだったが、心配のあまりフランソワ−ズは物陰に身を隠し二人の話しに耳を傾けた。
「もう一度言ってみろ!ジョ−!!」
「何度でも言います。僕は一生花嫁は迎えない。生涯兄上の片腕として生きて行きます」
「おまえ……あれほど言っているのに、まだ母上の死が自分のせいだと思っているのか? あれは仕方がなかったことだ。母上のお歳で出産は無理だったんだ。それでももう一人子供がほしいと主張した母上に非がある!!」
「兄上!!」
 ジョ−が怒りの声を上げた。
「いや、非があるとすれば親父殿だ! いくら母上が子供を欲しがったからと言って、寝所を別にすることもしなければ、子供が出来ないように気をつけることもしなかった。高齢だから懐妊しない、そう油断していた親父殿が……」
 殴りつける音がした。思わずフランソワ−ズが身体を強ばらせる。
「す……済みません、兄上。つい……」
「……それでいい。おまえは本来もっと激しい性格のはずだ。いつまでも過去の呪縛に捕われていたら……悲しまれるのは母上だぞ」
「……兄上」
「俺はな、おまえが産まれてきてくれて嬉しかったぞ。俺みたいな性格の男には、おまえのような性格の補佐が必要なのさ。頼むから子供の頃みたいに明るく笑ってくれよ」
「……兄上」
「何もあの姫でなくて良いんだ。恋をしろよ、ジョ−。きっとどこかに居るはずさ、おまえのその悲しげな瞳を明るく変えてくれる女性がな」
「兄上は……義姉上に出会って母上のことを忘れてしまわれたのですか?」
「忘れたりするものか! いいか、ジョ−。母上は俺を産むときに死んでいてもおかしくはなかったんだ。それは感謝している。だが、あいつに、后に初めて出会ったときの衝撃は、言葉ではとても語れるものではないんだ」
「愛し合っておいでなのですね、義姉上と……」
「当たり前だ。ほかの男のものにされる寸前をさらってきて、1年ブリテン卿に預けて、やっと正妃にしたんだぞ。自力で手に入れた俺だけの美しい花さ」
「女性は、花ですか?」
「そうさ、短く枯れてしまうのも……長く美しく咲き続けるのも男次第さ。あいつは俺の腕の中で日ごと夜ごとに美しく咲き誇っていくのさ」
「あ、兄上……」
 フランソワ−ズにもジョ−の声がうろたえているのが、手に取るように分かった。
「うん? おまえ……まさかその歳で女を知らないなんて言うんじゃないだろうなぁ?」
 返事はなかった。
「おいおい、冗談じゃないぞ。俺はもうおまえの歳には高級娼婦達を抱いていたぞ。もちろん子供が出来るようなへまはしていない」
「兄上! そんなことがもし義姉上のお耳に入ったら……」
「かまわないさ。俺が今まで抱いた女たちは、あくまでもあいつを抱くための練習台だったのさ。経験なくしてどうやって本当に好きな女を満足させてやれるんだ?」
 しばらく沈黙が流れた。
「ぼ、僕は、兄上とは違います。そんなお話だったら失礼します。とにかく僕は……兄上!!」
「こいつは預かっておく。こんな物を持ち歩いているのがいけないんだ。いいか? 恋をしろ! 愛する女性をその腕に抱け! それが母上に対する何よりの孝行さ」
「……失礼します」
 足音が近づいてきた。見つかったらどうしようとフランソワ−ズがあわてたが、幸いジョ−は別の方向へと歩いていったようだ。
 ほっと胸をなで下ろしたフランソワ−ズに声を駆けるものが有った。
「立ち聞きなど、一国の姫がすることでは有りませんな」
 いつのまにかジェットが目の前に立っていた。その手からは金の懐中時計がぶら下がっている。
「国民から憎まれている私は、もう姫などでは有りませんわ」
 寂しげにそう語った。
 フランソワ−ズの父は善王だった先王と違って悪政を強いていたのだ。民から絞れるだけ税を絞り取り、再三に渡るギルモア王からの“亡父の友人”としての忠告の手紙を無視し続け、妻や娘を愛しても民を愛そうとはしなかった。
 危険な国境越えをしてギルモア王の国に逃げ込んでくる者は後を絶たず、こうなっては王も亡くなった先王と交わした約束を守らざるを得なかった。
『ギルモアよ。ワシの亡き後、息子が民を愛してくれるのなら良い。だがもしそうでなかったらこの国の民を頼む。孫娘を頼む。こんなことはおまえにしか頼めん』との、遺言とも取れた約束を。
 フランソワ−ズは自分の国の民達は幸せに暮らしているものとばかりに思い込んでいた。
 しかし王都に着くまでに、何度命を狙われたことだろう? そのたびにジョ−に救われ、捕われた者はそのほとんどが、国を逃げ出した者達だった。彼らは一様にフランソワ−ズに憎しみの言葉を投げつけたのだった。
 自分の“生活”の全てが、国民の犠牲の上に成り立っていたと言うことを、フランソワ−ズは国境からの旅と、ヒルダから聞き出した話しから、痛いほどに実感したのだった。
「城の外の世界を知らなかったのはあなたのせいでは有りますまい? こんな言い方をするのは不躾だが、あなたをそう育てた回りに非が有るのです」
「皇太子様の仰るとうりですわ。私は姫と言う名のカゴの中の鳥に過ぎなかったのです」
「では、その美しい小鳥に頼みが有ります」
 何を言われるのだろうとフランソワ−ズの胸がどきりとした。
「……これを」
 と言ってジェットは懐中時計を差し出した。フランソワ−ズが両手を合わせて出すと、その中にそれを落とした。
「そのうちあいつに返しておいてやってください。あいつにとっては大事なものだ」
「開けてみてもかまいませんか?」
「どうぞ」
 蓋を開くと、その裏にはカメオ細工の中年の女性の胸像がはめ込まれていた。女性は優しい慈母の微笑みを浮かべている。
「この方が、お亡くなりになった王妃様ですか?」
「そうです。いつのまにかこんな物を作らせて持ち歩いていたのですよ、あいつは」
「分かりました。必ずお返ししておきます」
「頼みます」
 そこに、フランソワ−ズを探すヒルダの声が聞こえてきた。
「きっと親父殿にあなたを探してこいと言われたのでしょう。もうお行きなさい。ああ、俺達が何を話していたかは親父殿には御内密に」
「承知いたしました。では、失礼いたします」
 ドレスの端を持って礼をし、その場を立ち去るフランソワ−ズの背中に、ジェットはもう一度つぶやいた。
「本当に頼みますよ。姫」

★ ★ ★ ★ ★

 甘い吐息が部屋の中に満ちて行く。
 途切れ途切れにフランソワ−ズが愛する人の、ジョ−の名をつぶやくように呼んでいる。
 亜麻色の髪は乱れ、青灰色の瞳は喜びの涙で潤み、本当はジョ−の背中にしがみついてしまいたいのに、爪で傷つけてはいけないと、シーツを握り締めてそれを必死で我慢していた。
 その姿が愛しくて、ますますジョ−の独占欲を刺激した。
「……フランソワ−ズ。僕の……愛しい泉の精霊」
 わざと耳元で熱っぽくささやくと、フランソワ−ズの身体がビクリと反応した。
「止めて……どうか……もう……」
 やっとの思いで許しを請うフランソワ−ズの言葉を、ジョ−は無視した。耳たぶに口付けて、軽く歯を当てる。
 フランソワ−ズの口からくぐもった声が漏れ、背中が大きくのけぞった。それでも、シーツから手を離そうとしない。
「フランソワ−ズ……良いんだよ。もっと僕に甘えても。君の爪に傷つけられるくらい何でもないんだから」
「だめ……だめです……そんなこと!」
「……良いから」
 強く握り締めているフランソワ−ズの、右の手首に口付ける。続いて左の手首にも。
 けれど、フランソワ−ズはますますその力を強めシーツを離そうとしない。
「君は……強いね」
 そう優しく言って、両腕で頭を包み込むようにして唇に口づける。ジョ−の唇が離れ……そうして……。
 フランソワ−ズの顔が、切なくも美しく輝いた。
「愛しているよ……フランソワ−ズ」
 だが、その言葉は彼女の耳には届いていない。
 力尽きてぐったりとなっている彼女の魂は、すでに睡魔がその触手に絡め盗り、眠りの泉の底へと連れ去ってしまったようだ。
 ふっと優しく微笑むと、両方の手をシーツから離させてから、その身体を腕の中に包み込んで、寝台に横になった。
 以前は失って悲しい想いをするくらいなら、愛する女性(ひと)は必要ないと思っていた。けれど……いつの間にか愛と美の女神の息子の矢に、ジョ−の胸は射貫かれてしまっていた。人間には見ることも抜くことも叶わない矢に。
 いや、ちがう。
 おそらく最初に彼女の、フランソワ−ズの青灰色の瞳を見たときから、自分の心は捕えられていたのだろう。怯え切っていたあの瞳に。
 今なら兄が、なぜ身分も違いすぎる女性に恋をしたのかも分かる。
 理由など必要ないのだ。ただ自分が男だから、彼女が女だから、互いの胸の琴線が恋の歌を奏でたから。
 恋が愛に変わり、相手の笑顔を独り占めにしたいと思ったから。
 世界中で一番大切にしたい人だと思ってしまったからだ。
『……母上』
 ジョ−は心でつぶやいた。
『許してください。あなたのことを忘れてしまったわけではありません。けれど、僕は彼女を愛してしまったのです』

★ ★ ★ ★ ★

「奇麗……」
 ただその言葉しか出なかった。
 そこは見渡す限りの薔薇の園。多種多様な薔薇達が今を盛りに咲き誇っていた。やわらかい風が吹く度に、花の波が起こる。
 国の城でも薔薇は育てられていたが、ここまで大がかりではなかった。風土の違いだろうか? それともそれだけこの国が大国のせいだろうか?
「見事でございましょう? 亡くなった王妃様がお好きで、いろいろとお調べになって、庭師達に指示を与えてここまでになさったのですよ」
 後ろに付き随っているヒルダが言った。
「王妃様が? 御自身で?」
「はい。噂を聞きつけた他国の方が、珍しい品種を献上なさったことも有ったそうです」
“御身分を知ったら、快く思わない者も居るでしょう。御不自由でしょうが、しばらくは離宮のほうでお暮しなさい”
 そう言うギルモア王の勧めで、フランソワ−ズが連れていかれたのは、別名『薔薇の離宮』と呼ばれる、王都に近い森の中の館だった。
「亡くなった王妃様は、花のお好きな方だったのね」
「“野に咲く花の一輪でも愛しい” そう仰る御方だったそうです」
「……そう、そんな御方だったの」
「本当にお優しい御方だったと父母から聞かされました」
 王族ともなれば育てるのはもちろん乳母だが、産まれ持った気質は作り様が無い。ジェットにしろジョ−にしろ、二人とも平時はとても穏やかだ。その気質は間違いなく王と亡くなった王妃から受け継いだものに違いなかった。
 ジョ−の母への悲しいまでの想いが分かるような気がした。
 自分は両親の死を見取った。だがそれでもその瞬間までの両親との記憶は有る。十数年間分の思い出が。
 だがジョ−にはそれすら無いのだ。
「ねえ、ヒルダ。第二王子様にお会いできないかしら?」
「ジョ−様にですか? 残念ですがしばらくはお会いできないかと思われますが……」
「なぜ?」
「こんなことは申し上げにくいのですが、姫様のお産まれになったお国の状態は余りにひどく、援助のための一団が出ることになりまして、その指揮をジョ−様が……」
 ヒルダの言葉が途中で途切れたのは、フランソワ−ズの顔が蒼白になったからだ。
「姫様、お気を確かに。さあ、こちらにお掛けください」
 薔薇が絡まる涼しい東屋の下のベンチに、ヒルダはフランソワ−ズに手を貸して座らせた。
 フランソワ−ズは涙を流していた。
「そんなに……ひどい状態なの?」
「詳しいことまでは。ですが勝国が敗戦国のことを気に掛けるのはごく当たり前のことです。お気になさることでは有りませんわ」
「私は……本当に愚かな姫ね。いいえ、姫と呼ばれる資格も持たないわ。お願いよ、ヒルダ。もう私を“姫様”とは呼ばないで……」
「御自分のことをそんなに責めてはいけません」
 突然の声に二人の女性は驚いた。いつの間にかすぐ側にジョ−がたたずんでいたのだ。城を忍び出てきたのは、着ているものが一般騎士の子息の服装なのから分かった。
 ヒルダが礼をし、静かにその場を離れる。
「あなたがその様なことでは、また父上が悲しまれます。どうか……笑っていらしてください」
 口調は優しいのだが、やはりその瞳はどこか悲しそうだった。
「お忙しいのでは……ないのですか?」
 フランソワ−ズは指で涙を拭った。
「ええ。今頃、城では大騒ぎをしている頃でしょう。ですが今をおいては、あなたにこれをお返しする機会がしばらく取れなかったものですから……」
 そう言ってフランソワ−ズに近づき、差し出したものは、あの真珠の指輪だった。
「これは……!」
「もっと早くにお返ししたかったのですが、中身を処分できなかったものですから。知識の有る者に毒は洗い流させました。民衆の怒りに触れないために、あなたの持ち物で持ち出せたのはこれだけだったのです。大事な御母上の形見なのでは有りませんか?」
「そうです! ありがとうございます、殿下!」
 立ち上がって受け取ると、そっと指にはめた。その手を口元に持っていくとうれしそうに微笑んだ。
「女性はいつも、その様に微笑んでいられるほうが良いと思います。それではこれで……」
「お待ちください!」
 立ち去ろうとするジョ−の背中にあわててフランソワ−ズが声を掛けた。
「私からも……お返しするものが有ります」
「?」
 不思議そうな顔をするジョ−に向かって、絹のハンカチで包んだあるものを差し出した。
「これを皇太子様からお預かりしておりました」
 そう言ってハンカチを開いてみせる。金の懐中時計が姿を現した。
「それは!」
 一度は驚いたが、苦笑して受け取った。
「中をご覧になりましたか?」
「はい、皇太子様のお許しを得て」
「亡くなった母をいつまでも慕う、女々しい男だと御思いでしょうね?」
「いいえ、御自分を愛してくれた方を慕うのは悪いことでは有りませんわ」
「……姫」
 柔らかい風が吹いてきて二人を包み込んだ。まるで誰かが二人の本当の出会いを祝福するかのように……。
「……姫は……海をご覧になったことはございますか?」
 突然のジョ−の言葉に、フランソワ−ズは戸惑った。
「いいえ、私の産まれた国は奥地ですから」
「それでは……戻ったら私がお連れしましょう。我国には白い砂浜の広がる海が有るのですよ」
「楽しみにしておりますわ」
 フランソワ−ズが本当にうれしそうに微笑んだ。
「留守の間の護衛もきちんと任せられるものに命じて
あります。安心してお健やかにお過ごしください。それでは……」
 そう優しい笑顔で言うと、振り向いてその場を立ち去った。
 薔薇の海の中、小さくなって行くジョ−の背中を、フランソワ−ズはいつまでもいつまでも見送っていた。

★ ★ ★ ★ ★

 なぜだろう? なぜこんなにも彼女は美しくなって行くのだろう? 口づけを交わす度に、肌を重ねる度に、彼女の顔が歓喜で輝く度に、その美しさは艶を増して行く。
 自分の身体の下、白いシーツに横たわる愛する人の顔を、ジョーは無言で見つめる。
「ジョー?」
 甘い吐息を零しながら、フランソワーズが愛しい人の名を呼んだ。
「何を考えていらっしゃるの?」
「何も考えてなんかいないよ」
「嘘ですわ。何を考えていらしたの?」
「フランソワーズ……」
 優しい笑顔を無理に浮かべて誤魔化そうとしたけれど、フランソワーズは悲しそうにジョーを見つめていた。
「何か……悩みごとですの?」
「違うよ。分からないんだ……」
「何がですの?」
「君が……どんどん綺麗になっていくのはどうして? 初めて出会った頃の君も美しい人だな……とは思ったよ。もちろんあの頃は母上以上に美しいと感じる人は居なかったけれど……」
 フランソワーズが困った様な表情を浮かべると、腕を伸ばしてジョーの頭を抱き寄せた。極上の水蜜桃の様な二つの胸にジョーは顔を埋めた。
「私を変えたのはあなたなのに、どうしてそんなことを仰るの? 父も母も亡くなって誰も知らない国に来て、あなたに恋をして愛し愛されて、安心出来ているからこそ変われたのに。以前の少女のままの私で居た方が良かったのですか?」
「……それは嫌だな」
 優しく左手でフランソワーズの胸を愛した。甘い吐息が漏れる。
「それじゃあ……僕は自惚れて良いんだね? 君を美しくしたって。兄上は女性は花だって言ったけれど、僕は違うと思うな。君は僕だけの泉の精霊だよ」
「もっと……自信を持って……ください……愛して……いますわ」
「僕もだよ」
 そう言って顔を上げるとフランソワーズに口づけした。
 最初は優しかった口づけが、徐々に激しさを増し、ついにフランソワーズは受け止めきれなくなって、ジョーから逃れようとした。
 だが彼はそれを許さなかった。
「ジョー……」
 フランソワーズが怯えた声で許しを求めても、ジョーを止めることは出来なかった。
 彼がフランソワーズの左耳の後ろに顔を埋めた途端、彼女の口からは悲鳴にも似た声が放たれた。
 どうしても押さえることの出来ない、激しくも甘い衝撃が、身体の中を駆けめぐったのだ。

★ ★ ★ ★ ★

 楽団員達の演奏に合わせて、見事なソプラノの女性が喜びの歌を歌っている。グラスを手にしたギルモア王を初めとする貴族達は、ただその歌声に聞き惚れるしかなかった。
 彼女が歌い終わっても、その場は水を打ったように静まり返っていた。
 誰かが大きく一つ手を打った。皇太子のジェットだ。
 その途端に我に返った人々は、堰を切ったように拍手と喝采をその女性に贈った。
  そんな人々の輪から一番遠くに離れてその歌を聴いていたフランソワーズが、感動で頬を染めて溜め息を吐いた。
「なんて素晴らしいの。皇妃様の歌声はまるで女神のようだわ」
「そんなことを仰ると、あの御方は機嫌を損なわれます」
 後ろに静かに控えているヒルダが言った。
「まあ、どうしてなの?」
 フランソワーズは小さく驚いて振り向いた。
「皇妃様は“神と人とは所詮違う存在”と、心得ておいでなのです。まだ皇太子様との御婚約が発表される前に、あの方に『10番目のミューズへ』としたためたカードを添えた贈り物が届けられたそうですが、それは封も開けられずにビリビリに引き千切られたカードと共に送り返されたそうですわ」
 ミューズとはギリシャ神話の歌と芸術の女神である。万能たるゼウスの娘達は全部で九人。すなわち女神の妹の様だと讃えられたことに、激しい怒りを感じたと言う訳だ。
「皇妃様は……そんなに激しいお方なの?」
「はい、とても。あの皇太子様がご自身で選び出した御方ですから。もちろん心根はとてもお優しい御方ですが」
 初めてこの城に到着した夜、つい聞いてしまった二人の王子の会話。“さらってきた” “一年預けて正妃にした”とのジェットの言葉から、皇妃が平民の出であることは察しが付いた。
 楽団の音楽が流れ出し、皇妃が再び歌い始めた。
 フランソワーズの産まれた国に救済に行っていた、ジョーを初めとする一団が、一通りのことを終えて帰ってきた。その労をねぎらうための宴である。
 皇妃の歌に夢中になっている人々の間を縫って、ジョーがフランソワーズの元に近づいて来た。ヒルダが音もなく姿を消す。
「お久しぶりです、姫。お変わりはありませんでしたか?」
「その“姫”と呼ぶのは、もうお許しください。どうかフランソワーズとお呼びください」
「では……フランソワーズ、お元気でしたか?」
 そっとフランソワーズを誘ってバルコニーに出る。今日の主役はジョーなのだ、いつ誰に声を掛けられるか分からなかった。
「はい。『薔薇の離宮』で穏やかな日々を過ごさせていただいております。庭師のジェロニモに花の話を聞いたり、張々湖が珍しい異国の話を聞かせてくれますので、退屈する暇も有りませんわ」
「それは良かった。あの二人になら、あなたを任せておいても大丈夫とは思っていましたが、慣れない土地での生活はどうだろうと案じておりました」
 その言葉に、僅かにフランソワーズは頬を赤らめた。だが、次の瞬間有ることに気がついた。
「少し……おやつれになったのではありませんか? 殿下の方こそ慣れない土地での御公務に、御疲れなのでは?」
 『薔薇の離宮』で“約束”をしてから、すでに半年ほど経っていた。
 季節は春から秋へと移り変わっている。
「たいしたことはありません。自分から志願して出向いて行ったのですから、何ともありません」
「御自分から?」
 フランソワーズの言葉に、ジョーは『しまった!』と言う顔をすると口元を押さえた。
「……本来なら、兄上が出向くべきなのですが、まだ新婚の兄上と義姉上を引き離したくはなかったのです。それに父上は、一日でも早く初孫の顔が見たいとお望みなので」
 苦笑してそう言うジョーを、フランソワーズは優しい微笑みで見つめていた。
「お優しいのですね。それに、本当に国王陛下や皇太子様方のことを想っておいでなのですね……」
「父上と兄上は母上の居ない分の愛情を私に注いでくれましたから。私も間もなく『成人の義』を行う歳です。少しでも二人の力になりたいのです」
「羨ましいですわ。私には“きょうだい”が居ませんから。幼い頃など何度父や母に『兄上か姉上が欲しい』とねだったか分かりませんわ」
 その言葉に、ジョーは怪訝とした顔をした。
「義姉上は代わりになってはくれませんでしたか?」
「お優しいお手紙や贈り物は何度か戴きました。ですが御公務が御忙しくって、まだゆっくりとお話したことは無いのです」
「母上が居ない以上、我が国の最高位の地位にあるのは義姉上です。確かに御忙しい身だとは思いますが、その内きっと時間を作ってくださいます。ヒルダは良く仕えてくれますか?」
「はい、母娘共々良くしてくれます。ヒルダの気配りとあの子の無邪気さも私を心和ませてくれました。ただ……」
「?」
「私の前で母娘らしい素振りをまったく見せないのです。あんなに幼いのに、私に気を使っているのでは無いかと可哀想で……」
「……フランソワーズ。今でこそヒルダの夫のハインリヒは兄上の側近中の側近ですが、実は代々王家を影から守って来た家の出身なのです。彼らは物心着く前から厳しい教育を受けます。ハインリヒが兄上の“影”として城に上がったのは、わずか10歳の時だったそうです」
「ではあの子もその教育を受けていると? もうその必要は無いでしょうに……」
 フランソワーズの瞳に涙が溜まり始めた。
「泣かないでください。ハインリヒはあくまでも兄上の側近で私の側近ではありません。彼には彼の主義があって、娘の育て方まで私からは命令は出来ないのです」
「では殿下から皇太子様にお願いして止めさせてください。いえ、いっそヒルダを私の元から下がらせてください。そうすればもっと母娘の時間が増えるでしょうから……」
 とうとうフランソワーズは、両手を顔に当てて泣き出してしまった。
 最初は躊躇していたジョーだったが、ついに意を決してフランソワーズの肩に手を置くと、そっと抱き寄せた。
 フランソワーズはジョーの腕の中で微かな嗚咽を漏らす。
「あなたは……我が王家が御預かりしている大事な御方です。そんなあなたを安心して任せておけるのは、ヒルダが一番の適任者なのです。彼女なら何が有ろうとあなたのことを守ってくれます」
「……私の大事な女性(ひと)だとは、仰ってはくださらないのですね」
 あまりにも……あまりにも小さくフランソワーズが呟いたので、ジョーにはその言葉を聞き取ることが出来なかった。
「えっ?」
「失礼します……」
 そっとジョーの腕の中から出ると、フランソワーズはそのまま立ち去ってしまった。
「……フランソワーズ?」
 訳が分からず呆然としている彼の身体の上に、誰かの影が伸びて来た。
「なっさけねえ奴!!」
 呆れ返った様に言ったのは……。
「兄上?」
 バルコニーへの出入り口に腕を組んでもたれていたのはジェットだ。
「お前ね、あそこであの言葉は無いだろう? 女心の分かってない奴だなぁ」
「な、何がですか?」
「知ってるぞ。お前あの姫と“約束”してるんだろう?」
 その言葉にジョーはうろたえた。
「ど、どうしてそのことを……」
「良いから黙って聞け」
 ジェットがジョーのすぐ側に近づいて来た。
「そこまでしておきながら、“我が王家が御預かりしている大事な御方”、なんて言ったら彼女が傷つくとは思わないのか? この数ヶ月、どれだけその“約束”が彼女の心の支えになっていたのかも分からないのか?」
 ジョーには返す言葉が無かった。
「お前は……異境の地に居て、彼女のことが心の支えになっていたという自覚はないのか?」
 その言葉に、ジョーはハッとなった。
 初めて出会ったときの怯えていた瞳。
 指輪を渡しに行った時に泣いていた彼女。
 そうして……その指輪を指にはめ、“約束”を喜んで微笑んでいた笑顔。救済活動は正直に言うと激務だった。
 蔓延している栄養失調に、病。冬になれば人の背よりも高く雪が降り積もる土地だ。本格的な寒さが来る前にと、破損した家を修理がしたくても出来なかった民衆のために資材の手配。
 貧しさ故に捨てられた子供達を救済する『家』の設立。そうしてその『家』を管理していく者の選択。
 有りとあらゆることの最終決定をしなければいけないのはジョーだった。
 『父上ならばどう考えられるだろう?』、『兄上ならばどう行動されるだろう?』、いつも心の中で自問自答しながら考え行動していた。
 疲れた身体を野営用の天幕の中に横たえる時、眠りに落ちて行く僅かな瞬間に瞳の奥に浮かぶのは、確かにフランソワーズの笑顔だった。
「お前あの姫に惚れたんだろう?惚れちまったら大事にしてやれよ」
「兄上……」
「行け! 追いかけろ!!」
 きっぱりと言ってから、後は優しい口調で言った。
「俺の弟だったら惚れた女はモノにしろ。後のことは任せておきな」
「済みません、兄上!!」
 フランソワーズの姿を追って、ジョーはバルコニーを後にした。
「ふん、世話の焼ける弟だぜ……」
 バルコニーの手摺りに身体を預け、夜空をバックにジェットは言ったが、その顔は安心した様な笑顔だった。
「……殿下」
 ジェットに声を掛ける女性が居た。
「心配事は……どうやら解消された様ですわね」
「まだまださ。取り敢えず母上に執着しなくなっただけ良しとしないとな。さっきは見事な歌声だったぞ」
「恐れ入ります。ところで私からも少々お話が……」
「なんだ?」
 その女性の語る言葉を聞いていたジェットの顔が一瞬固まり、次に驚きの顔になり、最後は満面の笑顔になって彼女を抱きしめた。

★ ★ ★ ★ ★

 宴が開かれる際には必ず控えの間が用意される。
 ジョーが“『薔薇の離宮』の令嬢”の部屋を探し出し、ドアをノックすると何者かと問うヒルダの声が返ってきた。
「私だ。フランソワーズ嬢にお目に掛かりたい」
 しばらく間が開いて、再びヒルダの声がした。
「お嬢様は……どなたにもお会いになりたくないそうです」
「ヒルダ、頼む、このドアを開けて欲しい。どうしても彼女に謝りたいんだ!」
「……しばらくお待ちください」
 おそらくヒルダはフランソワーズに自分に会うよう勧めてくれているのだろう。たとえ朝まで待たされても彼女に会う決心で、ジョーはドアが開くのを待っていた。
 僅かな時間だったのか、それとも永遠とも思われる時が過ぎたのか……。
「どうぞ、お入りください」
 ヒルダがドアを開けてくれた。ジョーが中に入るのと入れ替わりに彼女は廊下に出る。
 ソファーに座ったフランソワーズが、こちらをじっと見つめていた。その頬には涙の跡が有った。
「……泣いていらしたのですか?」
 そう言ってしまってから、目を瞑って心の中で自分を叱りつけた。
「いいえ、泣かせてしまったのは……私のせいですね」
「……殿下」
 ジョーはフランソワーズの前まで来ると床に片膝を着いて、彼女の名工が大理石から彫り出した様な白い右手を取った。
「殿下!?」
 驚いたフランソワーズが立ち上がろうとした。
「どうかそのままでお聞きください」
 そう言われては立ち上がる訳には行かなかった。困ったような表情でフランソワーズはジョーを見つめた。
「さっきの言葉は取り消します。あなたは、私の大切な女性(ひと)です。異国での日々、心にはいつもあなたの姿が有りました」
「殿下……」
「今年はもう海に行く季節は過ぎてしまいましたが、来年の夏には私と海に行ってくださいますか?」
 フランソワーズの二つの瞳から涙が流れて落ちた。それは喜びの涙だった。
「御忙しいのは……分かっていました。けれど……殿下からお手紙の一つも戴けずに夏が終わってしまった時には……悲しくて……悲しくて……」
 ジョーは立ち上がるとフランソワーズの左隣に座り、ハンカチを取り出して彼女の涙を拭いた。
「悲しい時には仕方がありませんが、どうか私の前ではなるべく微笑んでいていただけますか? あなたの笑顔を私は……いいえ、僕は愛しく思います」
「……はい、殿下」
 まだ瞳の縁には涙が残っていたが、フランソワーズは精一杯微笑んで見せた。
 ジョーが右手を伸ばしてそっと彼女の頬に触れる。
「どうか、僕のこともジョーとお呼びください。家臣達の前では仕方有りませんが……」
 フランソワーズの頬が暁の色に染まった。
 見つめ合った二人はどちらからともなく身体を近づけると、初めての口づけをした。
 それはただそっと唇を触れ合わせただけの、じれったいほどの口づけだった。

★ ★ ★ ★ ★

 亜麻色の髪に、そっと右手の指を滑り込ませる。絹糸の様な、柔らかな髪に……。  耳のラインを指が滑り、手の平が頬を滑って、再び指が唇のラインをなぞる。人差し指が上唇を、そうして親指が下唇を。
「ジョー……」
 指先が優しく“愛しているよ”と呟いている様で、フランソワーズの胸は高鳴った。
「なんだい?」
「いいえ……ただ名前を呼んでみたかっただけです」
「……フランソワーズ」
 ジョーが愛しい人の名前を耳元で囁くと、フランソワーズの身体の中を何かが駆け抜けて行った。それを表情から察したジョーは、優しく微笑んでから彼女に口づけした。
 そうしてフランソワーズから唇を離すと、今度は両手をその胸元に当てた。
 ゆっくりと下りて行く手が、二つの胸の脹らみをなぞり、くびれたウエストをなぞり、腰のラインを通って太股に達した。
 まるで両の手に、フランソワーズの全てを覚えさせるかのようにゆっくりと。
 頭の下の枕を必死に握りしめ、甘く熱い吐息は漏らしても、声だけは上げまいとするフランソワーズの身体が、時折ビクッと反応する。
 遂にジョーの手は足首に達し、そのまま押し上げるようにして膝を持ち上げさせ、左右に大きく開かせる。
 その間に、ジョーは身体を滑り込ませた。
 フランソワーズのマシュマロのように柔らかな下腹部に頬を埋める。
「凄いね……君の身体は何処もかも滑らかだ。このままいつまでもこうしていたいよ」
 フランソワーズの二本の腕が伸びて来て、細い指がジョーの栗色の髪に差し込まれた。
「いけませんわ……私は“傾国の美女”になど……なりたくはありません」
 そう言った声は震えていた。“国を滅ぼす女性”にはなりたくないと言っているのだ。
「僕は、国王でも皇太子でもないから、君をそんな者にはしないよ……」
「ジョー……」
 フランソワーズが涙ぐみ出した。
 ジョーがクスッと笑った。フランソワーズの両肩を掴むとずいっと身体を持ち上げて、彼女の顔の前に自分の顔を近づける。
「冗談だよ」
 フランソワーズの頬が赤らんだ。
「酷いですわ! 本気で心配……!!」
 それ以上怒ることが出来なかった。フランソワーズの細い首が仰け反る。一旦ジョーの背中に回され掛けた震える手が、シーツの上に降りて必死に握りしめる。
「良いって言ってるのに……」
 その言葉には答えられないと、フランソワーズの潤んだ瞳が彼を見つめた。
「本当に、強いお姫様だね」
 フランソワーズの二つの肩を、しっかりと握りしめる。
 それからしばらくして……。
 今度はジョーが大きく首を仰け反らせた。

★ ★ ★ ★ ★

 宴の夜から数日して……。
 城内の馬場にジョーが向かうと、ジェットが自分の愛馬を構っていた。すぐ側には当然のようにハインリヒが控えている。一瞬迷ったが、思い切って声を掛けた。
「兄上!」
「なんだ?」
「少しお話が……」
「女の抱き方でも教えて欲しいのか?」
 その言葉にジョーは耳まで真っ赤になった。
「兄上!!」
「惚れた女が出来ちまったら、次は欲しくなるもんさ。まさか俺の弟とも有ろう者が……」
「兄上! それ以上はハインリヒの前ではお許しください!!」
「何処にハインリヒが居るんだ?」
 ニヤリと笑ってみせる。
「えっ?」
 キョトンとなったジョーが、今の今までハインリヒが居た所を見たが、そこにはもう彼の姿は影も形も無かった。
「いい加減に慣れろ、あいつが兄弟の会話に首を突っ込むような奴かよ。で、そう言うことを聞いて来ると言うことは、あの姫をモノにしたんだな?」
 愛馬が胸に顔をすり寄せて甘えて来たので、その首を叩いてジェットは落ち着かせた。側の柵に手綱を縛り付ける。
 すぐ近くにそびえる大きな樹の下に兄弟は移動し、並んで腰を下ろした。
「想いはきちんと伝えたんだな?」
「はい、彼女もそれに答えてくれました」
「口づけくらいは……してやったんだろうな?」
 意味深な顔で質問するジェットに、ジョーは顔を赤らめて返事をするだけしか出来なかった。
「……で、彼女の体温を感じたら、今度は欲しくなった訳だな?」
「そ、そんな、欲しいだなんて……」
「正直になれ、俺だってそうだったんだ。まあ、あいつはそう簡単に触れさせてはくれなかったがな」
「義姉上は意志の強い御方ですから」
「そりゃあ、もう、あいつと来たら……まあ、俺とあいつのことは良い! それで、どうなんだ!?」
 しばらくジョーは黙って俯いていた。激務を乗り越え少し大人びた弟の顔を、ジェットも黙って見つめていた。
「一つになりたいと思います」
「それ見ろ! 馬を引かせろ、出かけるぞ!!」
 ジェットがすっくと立ち上がった。
「ど、何処へですか?」
「街だ! お前、女を抱いたことがないんだろう? 何事も実戦が一番だ。俺が飛びっ切りの高級娼婦を……」
「それはお断りします!」
 きっぱりと強い瞳でジョーは言い切った。
「僕は……フランソワーズ以外の女性を抱きたくはありません!!」
 強い風が突然吹いてきて、二人の間を通り抜けて行った。
 ふん、とジェットが鼻で笑った。
「まっ、兄弟と言っても俺とお前じゃ、タイプが違うからしょうがないか……」
 そう言ってジョーの髪の毛をぐしゃぐしゃにいじくった。
「それに、お互い極上の女に惚れちまったんだからな。俺だってあいつに出会ってからは他の女には触れちゃいないぜ」
「兄上……」
「しかし、俺に頼ってくるところを見ると、お前“その道”の勉学をさぼったな?」
「あの頃は……自分には必要の無い“知識”だと思っていましたので」
 王子ともなれば学ばなければならないことは山の様に有る。一般教養に、乗馬に戦術。有りとあらゆるマナー。友好国の歴史や知識。
 そうしてその他に、優雅で繊細な女性のエスコート方法。その中にはもちろん女性の抱き方も有る。もしジェットに何か有った時、この国の次期国王となるのはジョーだ。そのジョーに子供を残す“知識”が無いと有っては、国は続かず滅びてしまう。
「仕方がねぇなあ。書庫に行くぞ。俺がみっちり仕込んでやる」
 きびすを返して歩き出したジェットの後を、立ち上がったジョーが慌てて追いかけて行く。
「済みません、兄上」
「まっ、ピュンマにはちょっと相談できる話じゃないわな。おまけにあいつは堅物と来ている。婚約もしていない女性を抱きたいなんて言ったら、目くじら立てるのは目に見えてら」
「兄上……」
 思わず苦笑するジョーだったが、ジェットの言うことは的を射ていた。
 だが次にジェットの発した言葉に、ジョーは怒りの声を上げたのだ。
「なあ、やっぱり街に出ないか? お前みたいなタイプは“綺麗なお姉さま”にしっかり仕込んでもらった方が……」
「兄上〜〜!!」
 もちろん兄は弟をからかっただけである。

★ ★ ★ ★ ★

 そぼ降る秋の優しい雨に、『薔薇の離宮』が濡れている。夏の間は開花を休ませていた薔薇達は、雨の中でも秋色に染まっていく森の中に彩りを添えていた。
 そんな薔薇達を窓越しに見つめているフランソワーズは、その薔薇達よりも美しかった。恋と言う名の魔法が彼女を変えたのだろうか?
「ねえ……ヒルダ」
「何でしょう、お嬢様?」
 紅茶を入れていた手を止めてヒルダが返事をした。幼い彼女の娘は今は居ない。
「あなたは……親が決めたからハインリヒと結婚したの?」
「いいえ。自分の意志で、そうしてあの人に請われて結婚いたしました」
「そう……」
 再びヒルダはカップに紅茶を注いだ。薔薇の香りの混じった紅茶の匂いが漂った。
「お茶が入りました」
「ありがとう」
 そう言って窓から離れたフランソワーズはソファーに腰を下ろしたが、何か悩んでいるようだった。
「お嬢様?」
「あの……あのね……ヒルダ。男の人に……殿方に抱かれるってどんな感じなの?」
「まあ……」
 少し困ったような表情で、恥ずかしさに頬を染めたフランソワーズに、ヒルダは小さく驚いた。
「お嬢様のお歳なら、すでに『花嫁教育』がお済みかと……」
「お母様達は、私に何も教えてはくださらなかったの。戦いが始まって初めて“そういう行為”があることだけ教えてくださって……」
 左手の指にはめた大きな真珠の指輪に触れる。母から最後に贈られた指輪。国からたった一つジョーが持ち出してくれた思い出の品だった。
「私どもとお嬢様達が受ける『教育』は違います。それこそ皇妃様にご相談なさった方が……」
「時間が……」
 一旦何かを言いかけたフランソワーズが、更に頬を赤らめた。
「時間がないの。殿下の私を見つめる瞳が、このごろとても熱いの」
「お嬢様……」
 ヒルダはソーサーごと紅茶を差し出してフランソワーズに勧めた。
「殿下なら……きっとお優しくしてくださいます。何も考えずにお任せしておけば宜しいのでは?」
「でも……怖いわ」
 受け取った紅茶に口を付けようともしない。
「……お嬢様は、殿下に抱きしめられたことはお有りですね?」
「ええ……」
「その時に“恐ろしい”とお感じになりましたか?」
「いいえ……このまま二人の鼓動が一つになるまで抱きしめられたいと思ったわ」
 ヒルダが優しく微笑んだ。
「そのお気持ちが有れば大丈夫です。そのお気持ちのまま殿下に全てをお任せして、お心の思うままにお応えすれば宜しいのでは?」
「……応えなければならないの?」
 不安そうに彼女は言った。
「例えれば……ダンスと同じですわ。殿方のリードに合わせて女性は踊るように……特に寝台の中のことは人それぞれ違うそうですから、私からもこれ以上は申し上げられませんわ」
 そう言ってヒルダも頬を染めた。
 皇妃はフランソワーズに手紙や贈り物をする時、必ず使者にハインリヒを選ぶ。普通なら考えられないことだが、僅かな時間でも二人を逢わせてあげたいという心遣いなのだろう。
 はっきりとは文面には書かれてはいなかったが、それを察したフランソワーズも“すぐにお返事を書くから待っていて”とハインリヒを留まらせた。
 彼が城へと帰った後のヒルダの面もちは、隠そうとしても隠せない喜びに満ちていた。
 その時、何やらざわめきが伝わって来た。
「何でしょう?」
 ヒルダの顔が、警戒に満ちた物に一変した。
 ドアをノックする者があったので対応したヒルダが、笑顔でフランソワーズの元に戻って来た。
「殿下が森を散策されていてこの雨で帰るに帰れず、逗留されるそうです。お迎えに出られますか?」
「殿下って……どちらの?」
「勿論、ジョー様です」
「ジョーが!?」
 紅く染まった顔を両手で押さえ、うろたえるフランソワーズの姿は、あまりにも初々しかった。
「ヒルダ! 私どうしたらいいの? ああ……」
「さあ、落ち着いてください」
 ヒルダに促され、フランソワーズはジョーの元に向かった。
 団らん用の間の大きな暖炉の前で、とっくに着替えを済ませ、濡れた髪を乾かしていたジョーが優しく微笑んだ。
 その場は二人っきりだ。すでに離宮勤めの者達は二人のことを心得ている。
 フランソワーズが、ジョーの微笑みに引きつけられるように側に近づくと、優しい口づけを一つしてから、彼はその耳元に囁いた。
“今夜……忍んで行っても良いかい?”
 ……と。
 赤面し、しばらく躊躇していたフランソワーズが、やがてやはり小さな声で“はい”と答え、離宮の中が静まり返った後、二人は初めての夜を迎えた。
『落ち着いて行け!』
 フランソワーズの部屋に向かうジョーの耳に、兄のジェットの声が蘇る。
『お前以上に彼女の方が怖いんだ! 本気で彼女のことが欲しいんなら、その点をきちんと分かって抱いてやれ! 俺が教えてやったことなんてほんの基本だ!! 後はお前次第だ、優しくしてやりな……』
 ドアの前で一つ生唾を飲み込んでから、ノブに手を掛けた。そうして……。
「ごめん……」
 寝台の中で、隣に横たわるフランソワーズにジョーは詫びを言った。
「……えっ?」
「君に痛い思いをさせてしまったね。だけど……“一夜限りの恋”で他の女性を抱いてから、君を抱くなんてことは、僕はしたくはなかったんだ」
「ジョー……」
 フランソワーズが嬉しそうに微笑んだ。
「あなたにとっても、私が“初めての人”なのですか?」
「そうだよ」
「私……幸せです。あなたに出会えて本当に幸せです」
 そう言ってからジョーの胸に顔を埋めた。その途端彼の口から僅かに痛みを訴える声が漏れた。
「ジョー? どうなされたのですか?」
「何でも無いよ」
「でも、今確かに……」
 そこまで言って自分の爪の長さに気がついた。
「まさか!!」
 起きあがってジョーの背中を見ようとする。そのフランソワーズの右の手首を掴んで優しく言った。
「“何でも無いこと”だよ」
 フランソワーズの顔が青ざめた。
「私……私……あなたの肌に傷を……」
「僕だって君を傷つけたんだから、お互い様だよ。さあ、そんな顔しないで……」
「お許しください……私……」
「初めてだったんだから仕方が無いよ。それに……そんな顔をされたら、僕はわがままも言えないよ」
「……えっ?」
 熱い瞳でじっとジョーはフランソワーズを見つめた。
「もう一度……君が欲しい」
「ジョー……」
 ためらいがちに、フランソワーズが再び寝台に身体を横たえた。ジョーが身体を重ね唇を重ねる。
 だがそれ以降フランソワーズがジョーの背中に触れることは無かった。ジョーがどんなに激しく愛しても彼女の決心は揺るがない。
 だが結果的にそのことが、ジョーを“大人の男”へと導くことになるのだ。

★ ★ ★ ★ ★

 秋がまた一段と濃さを増した。冬ももう近い。
 その間にジョーとフランソワーズの愛は急速に育っていた。すでに、二人のことは隠しきれるものではない状態だった。
「まったく兄弟揃ってお前達は……」
 と、ギルモア王は溜め息を吐いたが、内心は亡き友人の孫と自分の息子が恋に落ちたことが、嬉しくてたまらない様子だった。
 まだジョーが『成人の義』を行っていないので、婚約を発表することは控えたが、フランソワーズは『薔薇の離宮』から城内へと移された。
 フランソワーズの産まれた国からは、もう初雪の便りが有った。それと同時に『ジョーに戻って来て欲しい』という民衆の声が上がっている、という知らせも届いた。
 その知らせに当然ジョーは胸を痛めた。
 弱き者を守るのは王家に産まれた者の勤めだ。だがあの国に行くと言うことは、フランソワーズと再び離れ離れにならなければならない。
 自室のソファーに身体を預け、瞳を閉ざして苦悩するジョーに、フランソワーズが声を掛けた。
「ジョー……」
「なんだい?」
 優しい笑顔を愛する人に向ける。
「私の産まれた国の人達を守ってあげてください」
「フランソワーズ……」
「私……待っていますわ。平気です。ヒルダや、他の仕えてくれる者達が、皇妃様が居てくださるんですもの。寂しくなんてありませんわ」
「フランソワーズ。父上は、このまま僕にあの国を治めてほしいと望んでおられるんだ。君は民衆に恨まれている。連れては行けない。今度僕があの国に入れば、僕達は永遠に離れ離れだ……」
 その言葉にはフランソワーズもショックを受けた。俯いてしまった彼女の、組んだ両の手が震えていた。だがしばらくすると、それはピタリと止まった。
「努力はしてくださいませんの?」
 思いがけない言葉にジョーは驚いた。
「えっ?」
「国の人達が私を受け入れてくれるように、努力してはくださいませんの?」
 上げた顔はけなげにも微笑んでいた。本当は泣いてしまいたいのだろうに……。
「フランソワーズ、そんなに簡単なことじゃないよ。何年掛かるか分からない」
「それでも……待っていますわ。こちらで私も努力いたします。受け取ってもらえるかどうかは分かりませんが、国の人達にお手紙を書いたり贈り物をいたします」
「フランソワーズ!!」
 立ち上がったジョーがフランソワーズを抱きしめた。亜麻色の髪に顔を埋める。
「君は……君って女性(ひと)は……」
「でも一つだけお願いがありますの。年に一度でも良いのです。戻ってきてこうして私を抱きしめてくださいますか? それが心の支えになります」
「勿論だよ」
 そう誓ってから激しく深い口づけをした。
 フランソワーズの身体がジョーの腕で抱き上げられる。
 彼はフランソワーズを寝台へと運んだ。青い天幕の、二人だけの寝台へと……。

★ ★ ★ ★ ★

 白い白い砂浜が何処までも続く。
 3歳くらいの女の子が小さな手で巻き貝を拾い上げた。あどけないながらも品のあるその顔立ちは、フランソワーズにそっくりだ。亜麻色の髪が海風に揺れて、青灰色の瞳が好奇心に輝く。
「兄上! 兄上!!」
 少女の呼び声に、9歳ぐらいの少年が駆け寄って来た。栗色の髪に茶色い瞳。彼もまた、ジョーにそっくりだった。
「これは何ですか?」
「巻き貝だよ、綺麗だね」
「まきがい?」
「うん。まるで渦を巻いているような形だろう? だからだよ」
 そう言って小さな飾り箱を差し出した。中にはすでに、色とりどりの貝が入っている。
「それも入れるかい?」
「はい!!」
「沢山拾うんだよ、僕達はこの後父上の御国に行くんだから。向こうには海が無いからね」
「母上の産まれたお国?」
「そうだよ」
 兄が優しく妹の頭を撫でた。
 そんな二人を優しく見守っている女性の肩を、誰かがそっと抱き寄せた。
 愛しい人の肩に、彼女は頬を埋めた。
「ここまで来るのに……二つの約束を守るのに、結局十年も掛かってしまったね」
「それでも、あなたはきちんと守ってくださいましたわ」
「向こうに着いたら、君に花嫁衣装を着せてあげるからね……」
 自分の肩を抱いている手に、そっと右手を添える。
「もう……花嫁衣装を纏う歳ではありませんわ。それに、あんなに大きな子供が居るんですもの……」
 一旦手を離した男性は、改めて両手で彼女の肩を握りしめた。
「君にはずっと内緒にしていたけれど、実は国ではもうすっかり準備が整って居るんだよ。“民衆が幸せになるまでは花嫁衣装は纏わない”、と、君が神に誓いを立てたと知ってね、国中の人間が君が“帰ってくる”のを待っているんだ」
「……本当ですか?」
「ああ、僕が花嫁を迎えるんじゃない、君の国に僕が入るんだよ」
「あなた……」
 『花嫁』の頬を、涙が伝わって落ちた。『花婿』が優しく抱きしめる。
「これからは、もうずっと一緒だ。君と……そうして子供達と」
「ええ、決して離れません」
「あ〜! 父上が母上を虐めてる!!」
 突然非難の声が上がった。いつの間にか二人の小さな娘がすぐ側に来ていたのだ。
「馬鹿だなぁ、父上がそんなことする訳が無いじゃないか」
 妹の背中から兄が可笑しそうに声を掛けた。
「でも母上泣いてる!」
「嬉しくても……涙は出るものなのよ」
 しゃがみ込んだ母が娘を抱きしめた。
 これが、隣り合わせた二つの国に産まれた、王子と王女の恋の物語の結末である。
 “帰国”した、王后となった王女を、人々はその頭上に花びらをまいて出迎えたという。
 二つの国は『兄弟』として共に栄え、その交流は長きにわたって続いたと、伝承の書が今も語っている……。